団塊世代おじさんの日常生活

夏 日本で二番目に気温が高く、陶器と虎渓山と修道院で知られる多治見市の出身です。

陸軍に操られたかっぽう着部隊

2013-09-23 14:44:09 | 日記
以前このブログに投稿したのですが、詩人 茨木のり子さんが次のように述べられてます。

民主主義者への許しがたい転換

 今から思いますとね、最初はそれこそ軍国主義的にマインドコントロールされてたんですよ。マインドコントロールなんか、ほんとに今のはやりですけれど、あれは昔っからあったのでしてね。がんじがらめにさせられてたわけ。それが郷里に帰りまして、一月とたたないうちに民主主義者になってたんですよ(笑)。
 それが今ふりかえると許せないって感じ。その程度のものだったのかなあという感じですね。国のために死のうと思ってましたから。
 もうね、戦争に負けたら、とたんに新聞がばあっと民主主義になっちゃったわけですよ。だから新聞読むと、そうか、間違ってたのかって具合に、また洗脳され始めるわけですね。せめて一年ぐらいはね、自分でもう少し考えとけば良かったなって思うんですけどね。もう、情けないなって今になって思いますね。自分があんまり軽薄だったのが許せないって思います。


実際に行われたマインドコントロールの一例です。

澤地久枝著『昭和史のおんな』(文芸春秋・1980年初版)
「井上中尉夫人“死の餞別”」から

 井上中尉夫妻は大阪住吉区に住んでいた。井上中尉は数えの29歳、千代子夫人は岸和田高女を卒業したばかりの21歳。

結婚した翌年の昭和6年12月13日、井上中尉は部下とともに満州へ出征することになっていた。
その前日夕方、自宅に戻ると異変があった。

 <井上中尉が自宅玄関まできて、「井上は終日連隊にあり、御用の方はその方に」と貼り紙がしてあるのを不審に思った。玄関をあがるとただならぬ喘鳴がきこえる。奥座敷に駆け込んだ夫がみたのは、六畳の部屋に白木綿をしきつめ、刃渡り1尺の白鞘の短刀で右咽頭部を切り、ほとばしる鮮血の海によこたわって最後の息をひきとろうとしている妻の姿であった>

 遺書が3通残されて<台所には夫の首途(かどで)を祝うべく、赤飯と鯛の準備がしてあった>という。

澤地は、千代子の自害が何に起因するか今も謎だと書いているが、ここから事態は異様な展開を始める。

<戦地に赴く軍人と死をもってその夫を送る妻ーこの自決事件は、昭和6年末にあっては、戦争に傾斜しようとする時代の趨勢をさきどりし、女性のあるべき役割を示唆するのに都合のよい、格好の出来事であった>。

 井上中尉は「出発を延期することは自害した妻の意思に反する」と言って、翌13日予定通り出発する。事件が公表されたのはこの後である。

<井上千代子の葬儀は、12月15日第37連隊将校団によって阿倍野新斎場でおこなわれた。会葬者1500余、母校の岸和田高女はこの日臨時休校とし、全職員他400名が参列…>とある。 国粋大衆党総裁笹川良一も弔辞を述べている。

 <…壮烈崇高鬼神を泣かしむ故女史の夫君に対する餞別死は日本婦道を中外に宣揚したるものにして大日本全国民を感激せしめたり。その薫烈たる遺芳は永く世風婦道の亀鑑たり…>

 こうして美談が仕立てられ、四つの映画会社が陸軍当局の許可を得て映画化する。

翌7年3月には「大阪国防婦人会」が陸軍の直接指導下で発足、2年後「大日本国防婦人会」へと発展、会員数55万人を擁する団体(10年後には1千万人)になった。

井上中尉夫人の自刃がきっかけという。

「大日本国防婦人会」は、かっぽう着をきたご夫人方が夫や子供達を戦争にこぞって送りこんだらしい!
なかには戦争に行きたくない男性も当たり前ですがいたようですが、彼女らの強烈な圧力で行かざるを得ない雰囲気だったようです。
当初55万人の会員が、10年後には1000万人に膨れ上がったとのことです。
女性自体もお国の為一色になったようです。
陸軍にうまく操られたんですね!(苦笑)

女性は戦争には心より反対するものと思いこんでいましたが、マインド・コントロールされると熱狂的になり我を忘れるようにも思いました。
その熱狂的な性が怖いです。
世の中の風潮に流れるのではなく、自分自身の頭で考えてほしいです。
もちろん男性も同じです。


コメント (2)
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