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飾釦(かざりぼたん)とは意匠を施されたお洒落な釦。生活に飾釦をと、もがきつつも綴るブログです。

僕は知らない寺山修司NO.48⇒「新・書を捨てよ、町へ出よう」(河出文庫)

2007-06-08 | 寺山修司
「新・書を捨てよ、町へ出よう」(河出文庫)

現実の世界に“書”は有効足りえるのか?

たとえばボクが、日々その大半の時間を費やしている仕事という側面を見てみると、そこは良くも悪くも結果がすべて、数字で判断される世界である。プロセスにおいてどんなにがんばっても、最終的に数字に反映されなければそれはがんばりとしては評価されない。経営と言う厳しい側面から評価の軸があるので、常に結果を想定しなければならない。頭でっかちであっては数字を生み出すことはできない。行動あるのみ、動け動けと自分にけしかけ、他人にもけしかける。

しかし、それが質の高い仕事をしているかとなると別物であったりもする。結果も出し質も上等な仕事をするには、そこには知性と感性の豊かさがないと生み出すことはできないことがままあるのだ。その知性と感性を育んでいく役割を果すのが“書”であると見ることもできる。

先日も投稿したが、大阪の小劇場で企画されたテラヤマ博、そこで上演されたウォーリー木下氏演出の「書を捨てよ、町へ出よう、とか」は“書”によって育まれた知性と感性の強度を感じることができた質の高い仕事でもあった。

この「新・書を捨てよ、町へ出よう」をはじめ寺山修司のエッセイは書物からの引用も多く博学的である。寺山においても“書”の存在は大きいのだ。しかし、その人の独自性、オリジナリティーは、“私たちは書物を与えられ(または、書物の中から言葉を与えられ)るのであり、選択は可能だが、それを変えることはできない。一行と対話することによって、次の一行をきめてゆくことは不可能なのである。一行と次の一行とは印刷されたときから、京浜東北線の二本のレールのように、同間隔で果てしなくつづいているのであり、その中に立って私たちがどのように異論の旗をふっても、曲げることはできないのである。”(寺山修司「幸福論」より)とあるように、“書”はあくまでインフラストラクチャーであり栄養剤(=ダシ)でしかない。

本来の知性は、それら“書”を道具ととらえ、自身の想像力と行動力によって培われてくるに違いないのだ。


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2 コメント

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Unknown (さちこ)
2007-06-08 20:17:20
トラックバック有難う御座いました。
ブログの方を拝見させて頂いたのですが、
寺山修司さんの情報が沢山載っていて更に興味をかきたてられました。
もっと寺山修司さんについて知りたいと思いました。
参考にさせて頂きます。

では、失礼します。
返信する
コメント (飾釦)
2007-06-09 00:52:55
ありがとうございました。もしよろしければまた見てやってください。
返信する

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