飾釦

飾釦(かざりぼたん)とは意匠を施されたお洒落な釦。生活に飾釦をと、もがきつつも綴るブログです。

「呪われた部分 有用性の限界」(ジョルジュ・バタイユ)を読む

2011-04-08 | ジョルジュ・バタイユ

バタイユは、太陽とは無限に贈与する存在、象徴であり栄誉のイメージであるという。我々は日頃、この太陽の恩恵を半ば当たり前のようにそして無意識に享受している。天候不順が続き日照時間が減ると我々は大騒ぎし、下手をするとトップニュースにまで踊り出る。太古、世界中で太陽が神と崇められたように、我々人間いやこの地球に住んでいるすべての生命にとって最も大切な存在であることは疑うことがない事実であり、この尽きない光、エネルギーを届ける存在こそが栄誉に値するものと感じていたのだという。栄誉としての太陽、古代人はこの太陽の栄誉を得ようと自己を贈与した。太陽のように生きること、それは財と生を浪費しながら生きることが求められるという。太陽のような自己贈与、浪費こそが宇宙との一致を実現するのであり、日々の生活を豊にした。この栄誉ある行動こそ人間を光らせることができるのであり、<生>に値打ちを与えるのであるとバタイユは考えているようだ。

 

しかし、宗教改革以後、世俗的・現世的な有用性に人間の生活の基礎があるという考え方が支配的になったという。黄金を栄誉の浪費のためではなく有用な活動のために捧げるということ、それがまた資本主義の発展にもつながったのだと。資本主義は人間に、祝祭の濫費を放棄するよう求める。かつては祝祭や同じような種類の浪費が雲散させたものを、資本主義は生産を発展させるために蓄積するようになる。貨幣は生産の手段とみなされ、資本の拡張のための機能となった。資本主義は成長するか、枯渇するかのどちらかしかなく、成長を停止した瞬間的から崩壊し始めるのだといったことをバタイユは書いている。

 

人間にとって豪奢とは、社会的な地位の表現である前に祝祭の表現であったのだという。祝祭で人々は交じりあい、交感する。ところが現代の豪奢とは、人々を分かつ豪奢にすぎない。地位を築くための浪費による豪奢なのである。資本主義下においては文学も見世物も全ては貨幣に還元されていくのだ。《資本主義とは富を生産する拡張のために、富の利用が是認されるシステムであり、システムが停止することは想像もできない。個人の費消はこのメカニズムのうちに取り込まれていて、もはや出口がない。どれほど非生産的な浪費が続き、さらに拡大しようとも、最初に留保された富の本質的な部分は、そのまま存在し続けるのである。どれほどの繁栄も、これを変えることはない。このシステムは永続的に悲惨の感情を、悲惨の道徳的な習慣とふるまいを生み続ける。……最終的には、生産が過剰になる。生産が過多になり、生産したものをもはや売り捌くことができない瞬間が訪れる。》一例としてバタイユの文章を引用してみた。

 

余剰、浪費、蕩尽、費消、自己贈与…、キーワードを並べてみる。これらの言葉の裏にあるものは何か?バタイユを読んでいると<わたしの生をかけめぐる流れ>というものが出てくる。それはエネルギー?ボクははっきりとそれをつかむことができていないが、少なくともそれは効率的な有用性でまとめられるものではなくひとつは過剰で浪費されるべきもののようなのである。人間は奪うものだけではダメなんだと。またこの<わたしの生をかけめぐる流れ>は、基本的には個体の内にありながらも《内部だけに流れるのではなく、外部にも流れる……わたしの生は、わたしに向かってくる力、他の存在から訪れる力にも、みずからを開いている。わたしのものであるこの生は、どうにか安定している渦巻のようなもの》とあるように他者との交流に可能性を開いているもので《言葉、運動、音楽、象徴、笑い、身振り、態度などは存在の間で<伝染>が起こるための通路である》とバタイユは書いている。

 

もしボクのバタイユ読解が間違っていなければ、彼は現代でいうところのスピリチャリティに相当近い位置にあるように思えた。

 

※《》部分、「呪われた部分 有用性の限界」ジョルジュ・バタイユ著、中山元訳(ちくま学芸文庫)から引用

 

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呪われた部分 有用性の限界 (ちくま学芸文庫)
Georges Bataille,中山 元
筑摩書房
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