飾釦

飾釦(かざりぼたん)とは意匠を施されたお洒落な釦。生活に飾釦をと、もがきつつも綴るブログです。

耽美の海∞谷崎潤一郎NO.14・・・「谷崎潤一郎 ―『春琴抄』考―」大里恭三郎(審美社)を読む

2010-12-20 | 谷崎潤一郎

谷崎潤一郎の小説「春琴抄」を読んだ。そして映画化されたものを見た。図書館で文学論のコーナーへ行くと「春琴抄」に関して論じた本があることがわかった。その中の一冊、三島祐一のものを読むと春琴が賊に熱湯をかけられ顔面が破壊された事件の犯人が、実は誰々であったという論争が展開されてきているというのだ。谷崎の「春琴抄」は読者にいろいろなことを感じさせる傑作なのである。そこでそれ以外の「春琴抄」論はどうなっているんだろうと興味が湧いた。もう一冊「春琴抄」を巡る言説を巡ってみることにした。いずれも長文の文学論なので読みごたえがあるとともにどれもそうだな、と納得してしまうのである。ということで本日も「春琴抄」について書かれたものからの引用となった。※以下、「谷崎潤一郎 ー『春琴抄』考ー」大里恭三郎(審美社)から引用

 

 

・火傷が佐助の犯行であっては、春琴に対する彼の愛は濁る。いや、愛は不在となる。それは春琴の火傷の顔よりも醜いエゴイズムである。これが外部者の犯行であるなら、自ら目を突いた佐助の行為は、それが彼自身のためになされた行為であったとしても、エゴイズムと呼ぶことは出来ないが、自分が盲目になりたいがための理由作りとしても春琴に火傷を負わせたのだとしたら、それはただの変態に過ぎなくなる。これが、佐助の犯行だとすれば、その後、彼が盲になったことを春琴喜びが「盲目の師弟相擁して」泣いたというクライマックスは、美しいどころか、欺瞞めいたものになろう。佐助が犯人であっては、変態とエゴイズムばkりが全面に出て、愛の献身とマゾヒズムが後退するのである。

 

・(佐助の失明を谷崎の現実体験に絡めた論旨について)母の醜化は<自然>であるが、春琴の醜化は<人為>的なものであって、両者は意味が全く違う。もし谷崎が母の丹毒を春琴の火傷に変形したいと読みたいのであれば、むしろ外部犯行説に立った方が説得力をもち得るのである。

 

・かりに春琴の火傷が自害によるものだとしたら、この作品は、春琴の火傷と佐助の失明という二つの自害の物語ということになるが、しかし、それでは作品はあまりに自虐に傾き過ぎはしないか。春琴が佐助の盲目を欲したことは事実であるが、そのための方法として自分を傷つけるというのは春琴らしくない。

 

・春琴の火傷が外部犯行であるならば、自らの目を突いた佐助の行為にはリアリティが認められなくはないが、火傷事件が春琴・佐助のいずれかの行為であった場合には、私もこの作品に興醒めを覚える。もし犯行が佐助によるものであるなら、それはエゴイズムによる加虐であり、もしそれが春琴の自害であるなら、それはエゴイズムに発した自虐であったということになる。いずれにせよ、それは二人の性癖に反する行為と言わざる得ないのであるが、仮に、前者であるとすれば、その犯人の佐助に感謝している春琴は惨めそのものであるし、後者であるならその春琴の脚本を実演した佐助は、自ら求めるマゾヒズムではなく、命じられたマゾヒズムの相貌を呈してくる。この作品が、愛する女性に熱湯を浴びせたとか、美女が熱湯を浴びたというのでは異常に過ぎる。それでは、この小説が保っている危ういリアリティが崩壊してしまうであろう。

 

人間には想像力があるから、盲目になっても美貌の春琴のイメージを見ることはできるが、これは逆から言えば一旦、脳裏に焼きついてそまった醜貌の春琴のイメージを消すことも難しいということである。

 

・春琴はなぜ、佐助を盲目へと誘導したのか、佐助はなぜに、自らの目を針で突いて盲目となったのかーそれは春琴の美を永遠と化すためであるという観念的な解釈がなされている。それを一概に誤りであると言わないが、二人はそのような偏執狂的美学者ではない。彼らは積極的に盲目に走ったのではなく、状況に迫られて盲目となる道を選んだのである。春琴はその醜貌を絶対に見られたくなかったのであり、佐助もまた……春琴の火傷の顔が「人間離れのした」恐ろしいもので、「正視するに堪え」なかったからこそ、その目を突いたのである。彼は単に、失明願望にとらわれたロマンチストなのではなく、その無残な現実に賢明に対処したリアリストである。そこに、この小説のリアリティが存在するのである。

 

・『春琴抄』において谷崎が書きたかったのは、火傷のあと、二人がこの不幸をどのようにのりこえていくかといという極めて厳粛な問題であり、その解決策は、佐助が針で目を突くという極めてユニークなものであったのだから、その上、火傷事件の犯人にまで意外性を与える必要はない。意外性の厚塗りでは小説が奇譚に堕してしまうであろう。

 

・谷崎文学において、作中人物の言を安易に鵜呑みにするのは危険であるが、犯人の意図に関しては、語り手と佐助の推測が一致しているのであるから、これは真実を捉えたものと解釈して差し支えないのではあるまいか。……谷崎にしてはくどいまでに繰り返されるこの犯行意図を正当に読み取るなら、おそらく、春琴の火傷は、春琴と佐助の二人に対する残酷ないやがらせだったのである。そして二人は、その賊に対して、見事に肩透かしを食わせた。『春琴抄』は、春琴と佐助が愛と知恵とを持って、賊を見返す物語なのである。

 

・固有名詞をもって作品に登場しているのが利太郎一人であることから推しても、犯人は彼以外には考えられない。春琴の家の構造を知っていたのも、……(他の容疑のある人物の中で)たぶん利太郎だけだったのではなかろうか。消去法でいっても、最後に残るのは利太郎だけなのである。

 

・おそらく、佐助犯行説や春琴自害説が出るまでの読者の多くは、犯人不明とするのでなければ、利太郎を犯人として読んでいたはずである。佐助犯行説や春琴自害説は、作家の創作であり、研究者の深読みであって、それは自らの美学を作品に塗り込めた解釈と言わざる得ないのである。

 

・利太郎火傷事件の現場に遺留品を残してはいない。彼はその事件の暫く前に、春琴に撥で打たれ、額から血を流し、「覚えてなはれ」と捨てゼリフを残して去っただけであるこの。捨てゼリフを、法的な状況証拠とすることはできないかも知れないが小説、の読者の心証には、彼が犯人ではないかという強い疑念が生じる。谷崎にしてみれば、その印象を読者に与えることができればそれで十分だったのではないか。……作者は真相を見えないように朧化しているのではなくぼんやりと、見えるように描き上げているのである。

 

・『蓼喰ふ虫』の美佐子の父は地唄を評して「分からない人には分からないでいいよ、分かる人だけが分かつてくれる、と云つた態度で作つてあるのが床しいと思ふね。」と語っているが、谷崎はこの美学を『春琴抄』において実践したのである。作品を虚心によむなら、犯人は外部の者であり、容疑者の中で最も怪しい人物が利太郎であることは疑問の余地がない。どう見ても谷崎がそれ以外の解釈を求めているようには読めない。谷崎は読者の目に、犯人の姿がぼんやりと浮かぶよう、丁寧に『春琴抄』を描きあげているちょうど。、失明した佐助の眼に、春琴の顔が「来迎仏の如く浮かんだ」ように……。

 

※以上、「谷崎潤一郎 ー『春琴抄』考ー」大里恭三郎(審美社)から引用

 

◆クリック、お願いします。 ⇒
◆関連書籍DVDはこちら↓↓

 

谷崎潤一郎―『春琴抄』考
大里 恭三郎
審美社
春琴抄 (新潮文庫)
谷崎 潤一郎
新潮社
春琴抄 [DVD]
谷崎潤一郎
EMIミュージック・ジャパン
コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 耽美の海∞谷崎潤一郎NO.1... | トップ | 耽美の海∞谷崎潤一郎NO.1... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

谷崎潤一郎」カテゴリの最新記事