風のたより 道を尋ねて

世界の阿蘇 熊本・九州から始まる 水と緑 環境の世紀

           

嘗てなき試練の時

2016-10-15 | 想うこと




     <2012年7月の空前のゲリラ豪雨。 それは、土砂崩れといったレベルではなく、もはや「山津波」であった>

熊本・阿蘇と言うと移住以前(19年前)の私など恥ずかしながら、阿蘇?世界一のカルデラ。九州のどこ?熊本?鹿児島?くらいのことでした。 
2012年のゲリラ豪雨(山津波)に始まり、今度の大震災、さらに阿蘇山の噴火と未曽有の「災害」で全国に熊本阿蘇の名の上がることが多くなり、私の住む「産山村」もほんの小さな村ながら、ニュースなどで聞かされることもしばしば。
おそらく傍から見ていても気の毒になるほど、これでもかこれでもかと災難の大きいのが続く。
そのたびに友人・知人からお見舞いの連絡を頂くことが恒例のようにさえ思われるほど。
個人の状況に程度の差こそあれ、全体としてこの実体験(災難)の連続は人々にどのような内的、心的、精神的変化をもたらしているのだろう?
あの東北震災では、日本人全体に何か大きな内的変化を引き起こしていることは間違いなかろう。しかし付随する原発事故など「未知」の領域での事態進行中のただ中にあり、これも後世になりそこでの時代と人々の意識がどう変わったかが検証されることと思う。
       

       

       

       <2016年4月の大地震。 阿蘇神社が倒壊、阿蘇大橋の姿が消えた!!


「しかたがない」という微妙なニュアンスは他言語、特に英語には見当たらないとも言う。
それは受取様により
① 「どうでもいい」という投げやりな態度ともとれるし、②前向きに事態(大自然の運行:現実)を受け止め「善処」する風にも捉えられる。日本語の「難しさ」、「奥深さ」、「あいまいさ」というところ。これはそのまま「日本人」気質として置き換えることも出来る。①のパターンは自己退廃的(内面の劣化)で自滅タイプ。②は自己内面の変革から飛躍への可能性へ向かう。
また、①でも②でもない道もある。「考えないようにする」である。割り切ってしまう。なかったことにするのである。迷いなき「楽観主義」で一見よさそうだが、これは実際には「現実逃避」に過ぎず、自己と将来に大きな禍根を残すことになるが、当座は自己が救われた格好(らく)になり得。ある種の自己防衛本能で、訓練?することでそのような境地?になれる。バブル期の経済活動「イケイケどんどん」がその典型例。先の大戦時における軍部・マスコミ・群衆心理も「究極の場面」としてそうであったと思われる。結果は①と同じになる。行き詰まり。
今熊本、阿蘇で起きていることは、日本人がどの「道」を往くのか?どうもその嘗てなき試練としての「魁」を体現させられているとものと思えてくる。







       <2016年10月 阿蘇山噴火  明らかに火山活動が活発の傾向にある>
      
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