オネゲル:劇的オラトリオ「火刑台上のジャンヌ・ダルク」
指揮:クリスティアン・アルミンク
この作品は映画監督リュック・ベッソンの「ジャンヌ・ダルク」に酷似している。むろん年代的にはこちらが先行する。
プログラム・ノーツでも触れられているが、ジャンヌの行動とその動機を19世紀帝国主義的な文脈において語ろうとせず、ジャンヌ個人の素朴ともいえる信仰心に光をあてた点にその類似性が顕著にあらわれている。
構成的にも、ジャンヌと、彼女の良心もしくは内なる声(この作品中では修道士ドミニクがそれにあたる。映画ではダスティン・ホフマンが演じていた)との対話によってストーリーが進められる点など、偶然とは考え難い相似を示しているが、このことは演劇としての「ジャンヌ・ダルク」史上においてなにか歴史的な伝統があるのだろうか。
「劇的オラトリオ」と名づけられているが、ジャンヌとドミニクという、俳優(女優)によって演じられる(歌うことも演奏することもない)ふたつの役が語る台詞が中心となるこの作品は大掛かりなBGMを備えた朗読劇の一種とみることも可能であろう。それだけに、終盤でジャンヌが唯一口ずさむ「トリマゾ(5月の歌)」の素朴な旋律が全曲中ただ一箇所の「(声楽家として)訓練されていない声」で歌われたときのインパクトは強烈なものがある。もしもジャンヌ役が歌手としての活動もしているような(つまり、「訓練された」声を持つ)女優によって演じられる場合、この部分の扱いはきわめて難しいものとなるだろう。
筆者はいわゆる「6人組」の音楽には必ずしも親近感を持てないでいるのだが、オネゲルはそのなかにあって伝統的な独墺系音楽の語法に近いイディオムを持つ作曲家である上、この作品では意図的に大衆性を持った音楽を書こうとしていることもあり、聴きやすい音楽となっている。音楽的には、豚の裁判官による茶番劇や、王侯貴族のでたらめぶりを表したトランプの場面における皮肉、パロディに満ちた音楽が秀逸であった。そこではバルトークが「管弦楽のための協奏曲」においてショスタコーヴィチ:レニングラードを皮肉った部分などとの類似性も感じることができる。
アルミンクは、オケと綿密なリハーサルを積んできたことを感じさせ、この大規模な作品を充分にコントロールしていた印象を受けた。前回のロクシンもそうだったが、近現代の複雑な曲やあまり普段演奏されないレパートリーに対してこの指揮者はその美点を発揮することが多いようだ。欲を言えば演奏の流れの中で強弱・緩急にもう一層の振幅の大きさ、変化の明確さが欲しいようにも感じられた。
ソリストでは、豚の裁判長その他を歌ったシュミットが秀逸。ユーモラスさとグロテスクさを適度にまじえた歌唱で、茶番劇のくだらなさ、恐ろしさを印象づけた。
余談になるが、カーテンコールでの立ち居振る舞いで、主役を演じた俳優二人(特に、タイトルロールのベネント)のそれは他を圧して優雅かつ力強いものであった。比べる相手が悪いのかもしれないが、音楽家もフィジカルな訓練をもう少し行ってもよいのでは、という気がした。
指揮:クリスティアン・アルミンク
この作品は映画監督リュック・ベッソンの「ジャンヌ・ダルク」に酷似している。むろん年代的にはこちらが先行する。
プログラム・ノーツでも触れられているが、ジャンヌの行動とその動機を19世紀帝国主義的な文脈において語ろうとせず、ジャンヌ個人の素朴ともいえる信仰心に光をあてた点にその類似性が顕著にあらわれている。
構成的にも、ジャンヌと、彼女の良心もしくは内なる声(この作品中では修道士ドミニクがそれにあたる。映画ではダスティン・ホフマンが演じていた)との対話によってストーリーが進められる点など、偶然とは考え難い相似を示しているが、このことは演劇としての「ジャンヌ・ダルク」史上においてなにか歴史的な伝統があるのだろうか。
「劇的オラトリオ」と名づけられているが、ジャンヌとドミニクという、俳優(女優)によって演じられる(歌うことも演奏することもない)ふたつの役が語る台詞が中心となるこの作品は大掛かりなBGMを備えた朗読劇の一種とみることも可能であろう。それだけに、終盤でジャンヌが唯一口ずさむ「トリマゾ(5月の歌)」の素朴な旋律が全曲中ただ一箇所の「(声楽家として)訓練されていない声」で歌われたときのインパクトは強烈なものがある。もしもジャンヌ役が歌手としての活動もしているような(つまり、「訓練された」声を持つ)女優によって演じられる場合、この部分の扱いはきわめて難しいものとなるだろう。
筆者はいわゆる「6人組」の音楽には必ずしも親近感を持てないでいるのだが、オネゲルはそのなかにあって伝統的な独墺系音楽の語法に近いイディオムを持つ作曲家である上、この作品では意図的に大衆性を持った音楽を書こうとしていることもあり、聴きやすい音楽となっている。音楽的には、豚の裁判官による茶番劇や、王侯貴族のでたらめぶりを表したトランプの場面における皮肉、パロディに満ちた音楽が秀逸であった。そこではバルトークが「管弦楽のための協奏曲」においてショスタコーヴィチ:レニングラードを皮肉った部分などとの類似性も感じることができる。
アルミンクは、オケと綿密なリハーサルを積んできたことを感じさせ、この大規模な作品を充分にコントロールしていた印象を受けた。前回のロクシンもそうだったが、近現代の複雑な曲やあまり普段演奏されないレパートリーに対してこの指揮者はその美点を発揮することが多いようだ。欲を言えば演奏の流れの中で強弱・緩急にもう一層の振幅の大きさ、変化の明確さが欲しいようにも感じられた。
ソリストでは、豚の裁判長その他を歌ったシュミットが秀逸。ユーモラスさとグロテスクさを適度にまじえた歌唱で、茶番劇のくだらなさ、恐ろしさを印象づけた。
余談になるが、カーテンコールでの立ち居振る舞いで、主役を演じた俳優二人(特に、タイトルロールのベネント)のそれは他を圧して優雅かつ力強いものであった。比べる相手が悪いのかもしれないが、音楽家もフィジカルな訓練をもう少し行ってもよいのでは、という気がした。










