新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

11月3日 その3 企業の英語公用語化は不可避?

2015-11-03 15:52:52 | コラム
英語の公用語化論:

「頂門の一針」第3824号に平井修一氏の「企業の英語公用語化は不可避?」との論文が掲載されていた。そこでそれに触発された私の考えを述べ行こうと思う次第。

私は何時のことだったか、楽天やユニクロでの社内の公用語を英語にするという方針を批判したことがあります。その際にも平井氏が今回引用された本田の伊東社長の否定論も引用したと記憶します。以下には”English”(=native speakerたちの言葉)と「英語」(我が国の学校教育における科学としての英語)を別けて使いますのでご理解のほどを。

我が国の英語(乃至は語学)教育の問題:
私が否定する理由は第一に「世界で通用するようなEnglishを使いこなせるようになりたいのなら兎も角、我が国の学校教育で教え、TOEICなるものでその仕上がりの度合いを試す『科学としての英語』で社員同士が会話か対話をするようになっても、ほとんど意味が無いと言うかnative speakerたちと自在に切り結べないのではのではないか」と危惧するのです。

これを言う訳はその『英語』で育ってこられた我が国の一流企業の方々の英語はEnglishではなく、命の遣り取りのような現場では効果が挙がらなかった場面を幾らでも見てきたからです。これは通じないという意味ではなく、本当にnative speakerたちに理解させるのに手間取って、まだるっこい思いをさせられたから言うのです。通訳が出来る者がそこにいるではないかという意味もあるとご理解下さい。

しかも、我が国の英語教師たちの外国人離れした発音で育ってきた方々には、native speakerたちのアクセントやイントネーションに直ぐにはついていけずに難渋しておられたのをずっと見てきたという経験もあります。これも我が国の英語教育の結果と言うか負の成果の一つです。あの発音で育てられれば聞く耳が発達しないのです。実を言えば、私も英語の現場から離れて21年も経った今では「耳」が大いに問題と化しています。

文化比較論:
平井氏が文中に引用された伊藤忠商事の北村氏の

<楽天の英語公用語化の内容を知り「語学力は国際化の一つの要素だが、ま ず日本の文化を理解していないとグローバル化に対応できるとは思えな い」と述べられたノーベル賞学者の赤崎教授の言葉が思い出された>

は誠にその通りです。この点は私の英語教育改革論だったか、その批判で採り上げたことです。即ち、「Englishによる意志の表現と相手が言うことを出来る限り正当に理解出来るような、ある程度以上の水準に達する為には英語圏のある程度以上の階層に属する人たちと、その国との文化(ある集団なりグループなりの言語・風俗・習慣・仕来り・思考体系を言う)の理解と認識が必須で、その為にはそもそも自分が何者であるかを承知しておくべきだ」と主張してあり、これは私の経験にも基ずく信念であります。

アメリカの会社に籍を置いた22年半というか、広い意味ではそれ以前の終戦直後からそういう環境にあって英語で(アメリカ語?)話すことを半ば強制されて来た者として言うことは「違いを弁えずして異文化の中に入っていくことは危険だ」であり、日本の学校教育だけ乃至はそれを主体して育った来た方々同士で「英語」で話し合うことが真の意味での国際場裏というかそのような環境に慣れた人材の育成になるかとの疑問です。簡単には成れないという意味ですが。

換言すれば、私自身はアメリカ語の中で育って来て、それを媒介にして「国際的とは何か」を言わば”OJT”で学んだだけで、ヨーロッパに文化にはほとんど直接に長時間は触れてはいないのです。それでも有り難いことに(有り難迷惑かも知れませんが)国際人と見なされることがあったのです。忸怩たる思いもありました。

それに、私のEnglishの欠陥は「何と言っても獲得形質ですから、相手がnative speakerたちの場合はその場で真似が出来ますし、その雰囲気に巻き込まれて最大限の効果を発揮しますが、真似しても仕方がない(失礼?)邦人相手では力を発揮できないことが多かったのです。私の言わんとすることの意味をお解り願えると思いますが、例えばゴルフのハンディキャップがシングルだった実弟は「参考にならない」と言って私とラウンドしませんでした。

結論:
社内で英語を公用語にすることの意図は誠に壮なるものがあると認識はします。だが、見本になるnative speakersが周囲にいないことには最低限の効果でも発揮しないと危惧するのです。我が国の学校教育で育った方たちが知らず知らずに最も苦しめられるのが”idiomatic expressions”であり、禁忌品である”swearwords”に知らぬ間に引き込まれてしまうことかと思います。経験上も彼らはこういう問題点を教えられてこなかったと解るのです。

結局私の主張の結びは「我が国の世界的にも低水準になる語学(でなければ話し言葉と書き言葉を区別して教えていない)教育の改革にあるということに帰結します。しかし、改革しようにも改革できる水準に達している教師が極めて少ないことも大きな問題でしょう、将来にわたっても。


11月3日 その2 外国語による自己主張の訓練を

2015-11-03 08:37:26 | コラム
東京大学名誉教授・平川祐弘氏は言う:

件名に挙げたのは、去る2日の産経の「正論」に平川名誉教授が「危惧の念抱く教養主義の衰退」と題して論じられた中の小見出しの一つで、私の興味を惹いた点だった。論文としては誠に立派ご尤もなことばかりで、流石に平川名誉教授と恐れ入って読んでいた。

中でも掲題の項目で「私が学際的につきあった人は理系社会系を問わず詩文の教養があり外国語が達者な人が多かった。外国人との食卓で豊かな会話をできぬような専門家では寂しいではないか」と言われた辺りは極めて印象的で同感だった。平川名誉教授はそれだけというかそこまでの地位に達しておられたので、そういう教養と共に外国語の熟達の必要性を痛感されたのだろうが、我が国の人でそこまでの領域に至る例がどれほどあるだろうか。

そこで、自分自身の例を振り返ってみた。何度か述べてきたように、私は自分が望んでアメリカの会社に39歳で転身したわけではなく、アメリカの大手の企業の文化があのように我が国のそれとはあれほど異なっていると事前に承知していたら、転身などしなかっただろうと今になって考えているのだ。そして幸か不幸かの判断には迷うが、転身先でアメリカの上位数%に入るだろう人たちと仕事をして、彼らの家庭にも招かれることになっていったのだった。

そこで彼等と毎日のように朝か晩まで行動をともにして、当然のように食事も共にした。また彼らの奥方や家族との食事も当たり前のように行ってきた。馴れない間はその場の話題についていくもの容易ではなかったし、こちらから持ち出す話題の選び方すら解らずに苦しめられたものだった。そこで知り得て事は話題には西洋文化史に属するもの、クラシカル音楽、美術から時にはスポーツ等の多岐にわたる知識を求められるものが多い点だった。

そうと知った当初は苦しめられた。簡単に言えば「えらいところに来てしまった」という嘆きだった。だが、幾らかの時を経て解ったことは「それは彼等の文化であって我々のものではない。故に知らないと言って、話題の輪に入っていけないと思って恥だと思う必要などない」という悟りだった。即ち、「そこでは、彼らが知らない、乃至は正しい知識が無い日本固有の文化等を語れば良いのであって、臆することはない」のだった。

そこから先の問題点があれば、そういう話題を如何にして英語(私はアメリカの会社の日本駐在員とでも言えば良い身分だったから)で彼らに理解させるように表現するかではないか。自慢話と採られても結構だが、私は幸運にも我が国独特の「科学としての英語教育」に毒されていなかったので、比較的容易に自分が表現したいことが言えたので、遂には「貴方がそれほどの”conversational entertainer”とは期待していなかった」と言われるまでにはなれた。

言いたいことは、平川名誉教授のお説には賛成であっても我が国の外国語教育の水準の低さでは、学校教育だけでその水準に到達するのは至難の業だし、ましてや私のように自ら選んだ運命であっても、アメリカのそういう会社に入って社会の上位に属する層の人たちとの深い交流の機会を得るのは簡単ではないと懸念するものだ。私はそのような機会は海外駐在や留学でも容易に巡っては来ないと思っている。意味が違うのだ。

ではどうするべきかは平川名誉教授のような優れた方にお考え願うか、小学校から英語を必須科目にしようなどと誤った(愚かな?)ことを企画する文科省が、本当の意味で海外に出てそういう経験をした人たちの経験からの意見を承って外国語(語学ではない、私は学問では無いと思うが)教育をそういう水準に達する必要がある職業や学業を目指す人たちの為に改革すべきだと思う。決して万人に施すべき教育ではないと思うのだが。

日韓首脳会談

2015-11-03 07:29:54 | コラム
総理は実質的に何も語られなかった:

昨2日にソウルから帰国された安倍総理がBSフジのPrime Newsに出演された。ある程度の期待を持って「具体的な会談の内容を語られることはないだろう」と思って見てしまった。総理が感情を抑制された感じで実際に語られた内容は、3日の産経の一面に田北真樹子(外信部記者)と阿比留瑠比の解説の方が余程説得力があったと感じさせたほど淡々としたものだった。

朴槿恵大統領と少人数(3人だった模様だ)で先に懇談された話題はおよそ私でも想像がつくようなものだったから、産経は多くのページを使って詳細に記載していた。私には「XX婦問題については挺対協が実権を握っており、大統領は・・・」という辺りが全てだと思わせてくれたし、総理が「解決済み」と突っぱねられたとしても不思議はなかったと思う。

テレビ各局が記者会見も昼食会もないような予定であると解ったように報じたが、朴大統領と韓国側にはそのような非礼な態度をとらざるを得ない国内事情があるとの解説も私は採りたくない。それそのものが韓国の姿勢であり対日感情であり、そこまで持って行かせた陰には朝日の誤報(虚偽の報道)と河野談話があったので、そこに我が国につけ込み、我が国に国際的に汚名を着せる機会を与えてしまったことがあったのだと思っている。

それにしても私はテレビ局たちが「3年半も首脳会談を行うことが出来なかった」という伝え方をし続けていたのは不快だった。あれでは「我が国が要請しても韓国に応じて貰えなかった」と言いたいように聞こえるのだから。総理は「何時でもドアを開けて待っている」と言っておられたし、現実にアメリカからの圧力(要望?)もあって会談を開かざるを得ない時期に来ていたのは韓国側ではなかったか。反日的であって気に入らない。

事の序でに英語の講釈をすれば、マスコミ報道は”Japanese government kept on trying to have the top-level (summit) meeting only to fail. または Korean government never agreed.”と言っているのと同じだ。要するに、「非は我が方にあり」とどうしても言いたいのが偏向したテレビ局の姿勢ではないのか。

私は会談が開催されたことを例によって”Better late than never.”と評価したいのだ。我が国が如何なる議題でも譲歩する理由も必然性も根拠もない。産経は韓国側が我が国にボールを投げ込んだという意味のことを言っていたが、私は朴大統領はボールを握って離さないだけだと思っている。