February 1, 2012
1月31日(火) 読書会
本は、姜尚中・中島岳志『日本』(河出文庫)。1950年生まれの姜氏と1975年生まれの中島氏の対談だ。私には一番遠い場所にあり、しかし一度耳を傾けなければならない問題を扱っていて、また簡単に読後感を書けないほど難解な本だった。右か左かの二者択一が好きな、ということばはよく聞く。この日の「天声人語」にも見かけた。簡単にこう語るもののなかにくみしたくはないが、私も多少そういった傾向の中で育ち、考えてきた。若い頃の安保改定反対のデモへの参加もその一端だったのかもしれない。もちろんそういった情熱があればこそのある物事への反対であり、主張でもある。しかし長く生きて来ると、やはり耳を傾け、真摯に受け止めなければならない言葉もたくさんある。この本はそんなものを投げかけてくれた。姜氏と中島氏の対談を、ほんの一部であるが、次に引用する。
中島 政治と文学の関係というのは、戦後も五0年代初頭まで、すごく大きなトピックでした。そのころ福田が、「一匹と九十九匹と」というエッセイを書いています。人間は迷える子羊であり、そのうちの九十九匹を救うのが、政治であると。しかし、政治で救えない一匹が存在する、それを救うのが文学である。そしてその一匹とは、九十九匹がいつでもなりうるものだ。そういう比喩で、政治と文学が担う領域は違うということを強調している。
姜 文学から見ると、政治というのは非常に薄汚いものだし。この文学的な「私」が非常に過剰に肥大化して、その領域を政治に拡張すると、ある種のラジカリズムに変化する可能性がある。これがとても危うい。
中島 まさに政治の領域は実存の中心ではない。また熊本での話に戻すと、ナショナリズムは政治的な概念で、パトリオティズムあるいは実存の問題なんですよ。これを自覚的に区分し、それぞれを考えないと、支配層の「上からのナショナリズム」に搦め捕られる。「それは違うんだ」と、保守はおそらく言い続けなければいけないんですよ。福田恆存ならばそう言い続けたでしょう。
姜 そのあたりはぼくも興味がある。つまり、近代日本における私という問題を、きちんと突き詰めたい。ウルトラ・ナショナリズムや、すごく観念的なある種の「左翼」革命論が出てきたりするとき、保守の定点、ものすごくしっかりとした足場が必要なのではないだろうか。漱石だって最後はそこに自分の足場をきちんと作った。逆にいえば、漱石や極左に向かう人間の自己形成の問題。そのあたりの分析が今詰められきっていない。(姜尚中・中島岳志『日本』、河出文庫)
本書の随所に見られる、日本の未来への提言は、いろいろと勉強になった。この対談全体を覆う「保守」のヴェールには、いささかうんざりするが、私自身の知識がお粗末すぎて、お二人に反論はできない。私にとっての見過ごせないアンチテーゼとして頭に入れておきたい。もうひとつ、この本の中心軸になっている「パトリ」(郷土、故郷、原郷といった意味―本書・註より)について、触れたい。姜さんは生まれ育った熊本を、中島さんは生まれ育った関西や暮らしたことのある札幌を根拠地として語っていられる。姜さんと中島さんの間にはかなりの年齢差があるが、あまり波風のない25年だ。それ以前の、戦争を挟んでゆっくりと自分の根拠地を考える間もなく過ぎていった時代に育った我々の世代とは、やはりずれがあるように思う。
2月1日(水)
友人と会うために、たまプラーザまで出かけた。市の高齢者割引を利用すると、バスで110円の場所だが、こんなことがないとなかなか出かけない。お互いに貸し借りしていた本を交換し、さらに「芸術新潮」(2011年12月号)をお借りした。高嶺秀子さんについての記事が載っているということだった。途中までご一緒されたご主人様にも紹介していただいた。いつも気持ちのいい会話ができる方で、近況などを忌憚なく2時間ほど話し合った。友人と別れた後、私はいつものように東急デパート地下の「富沢商店」で、「大正金時豆」と「すりごま」を求め、今回は「丹波黒豆きな粉」と「大粒白花いんげん」も買った。何だかとても豊かになった気分だ。この日は久々に暖かい日だったが、家に帰りつく頃には、寒さが戻ってきた。用意してあった節分の「福豆」を食べながら、春の到来を心から願った。










