歴史散歩2

2009-04-18 10:11:09 | Weblog
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岡本太郎作・太陽の塔(Tower of The Sun drawn by Tarou-Okamoto)

 岡本太郎の太陽の塔は、1970年の大坂万国博覧会のときに見ました。

 あのにょきっとした胴体と、古代彫刻を思わせる神のような顔。独創的とは、彼の絵や彫刻をいうのではないでしょうか。

 彼は、生き方の面でも、奇抜だったのではないでしょうか。そんな本を書いています。80歳まで生きていれば、その奔放な生き方でもっと僕ら中年の者を喜ばせ、また勇気づけてくれたことでしょう。

 全部が全部ではないものの、あの人のように雄々しく生きたい、これからを生きてみたい。歯に衣を着せぬことを喋り、それでいて人を引きつけてやまない何かを持っていました。

 人は、ほんらいもっと楽しむためにこの世に出現してくるのではないでしょうか。わたしは、いつかゆっくり彼の芸術を鑑賞してみたい思いを抱いています。その思いとともに、少し「芸術は爆発だ」というような彼の言葉に触発されたのか、わたしも「人生に一回くらいは自分の真に考えていること、思うことを述べたり、実践するなどして大きくはばたいてみたいな」と思うものです。そう、人生とは一回きりのものですから。

 参考までに、岡本太郎美術館は川崎市に、岡本太郎記念館は港区南青山にそれぞれ開設されていると、2000.10.7夜のテレビ番組「岡本太郎の世界」で紹介されていました。川崎には、彼の1950年発表の代表作「森の掟」が展示されているとのことです。わたしもいつか行ってみたいものです。

2000.10.22

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縄文のビーナス(A national treasure;Vienus of Zyomon Zyomon period is about BC12000-BC300 )

 2000年10月21日の午後10時から教育テレビで「縄文のビーナス・火焔(かえん)土器」の放映がありました。5月1日に両方とも上野の国宝展で見ていたので、今度は余裕を持ってしっかりと理解することができました。

 20センチメートルを超える寸法の土偶を「大型土偶」といい、個人ではなく共同体の祭祀に用いられていたのではないかとナレーター氏がいう。いまから6千年も前に縄文のビーナスの前で人々が何やら祈りを捧げている光景が目の当たりに浮かんできて、しんしんとした感情に浸りました。

 博物館ではビーナスの表情を何度ものぞき込みました。20センチくらい離れたガラス越しの観察でした。子供のころに昆虫の目を見た感覚がよみがえってきました。胴体のくびれは圧倒的なまでの豊穣さで、解説者の言われたことに同感です。頭の上の部分にはぐるぐる巻き、その下にはS字の模様が施されていました。輪廻転生の願いが込められているのでしょうか。少し離れて見ると、前から、横から、後ろから、その三態の変化を楽しむことができるたぐいまれな土偶に違いありません。

 唯一、ナレーターと解説者が触れなかった印象について述べてみますと、それは当然のことながら縄文のビーナスが小麦色の裸をしていました。小学校や中学校の教科書には必ず出てくる国宝の埴輪像も陳列されていたが、それは兵士のような姿をしていました。

 それにひきかえ、かのビーナスは裸一貫のほかは何ものも身にまとっていません。相対する人間もまた裸の姿で向かい合うのが順当となのかもしれませんね。そんな想いさえ、どこからともなくやってきて脳裏をよぎっていきました。人は裸で生まれ、また裸で死んでゆかねばなりません。テレビ画面を見ていて、生きてあるうちにおまえは何をするかとビーナスに問われているような気がしました。

2000.10.28

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歴史・文化探訪7

Hisrory and Culture Western-Eastern7

先カンブリア期の藻類の化石

(Fossil remains of plants far far years ago)

 わたしは仕事の都合でよく茨城県つくばの研究所に行っていました。東京駅から常磐道を通る高速バスに乗って1時間半ばかりで着きます。会合や打ち合わせ始まる前の暫しの時間を使って、地質標本館を見学していました。そうすることで、なんとなく気分が落ち着くからです。

 1階を入ったところに世界最古の岩石である「アキャスタ片麻岩」

(AcastaGneiss,oldest Rock on theearth)が置いてある。

「39億6200万年前

3962 million years ago

カナダ地西部

Slave province,NW Canada

 続いて、地質年表と銘打った空間に入ると、そこにはこう書かれていました。

「地球の年齢は、およそ46億年と言われていますが、今までにどのような動物や植物が、何百万年、何千万年、何億年前に発生し、いつ死滅したか、あるいは現在も生存しているかなどを、この展示室で見ることにしましょう。人類の発生は地質年代のきわめて若い時代に属するのも注目に値します。」

 時計回りに進んでいくと、まずらん藻類スクルトコピー層のチャートが現れます。クラゲ・ゴカイ類の化石のそばには、想像上の姿がデッサンされています。かれらはこの絵のようにふわふわと海中をさまよっていたのでしょうか。先カンブリア時代というのだから、少なくともカンブリア時代との境目の5億7千万年前まで遡ります。命の切れ目のない連鎖がここから始まっている、と現代の地質学は考えているわけですね。

“Chart in Swart Poppie Formation Cyan phyta(Algle)

Transval,South Africa,Denated by the Geological Survey

of South Africa F7981”

 藻類のなかには、オーストラリアで見られるシアノバクテリアのような仲間がいます。シアノクテリアは35億年前から子孫を残し続けている。昼間は光合成を行い、ねばねばした体を生長させていました。成長するとともに海水中に酸素を供給している。何十億年をかけて水や空気中の酸素を吸って生きる生き物たちの環境を育んできたのです。

 こうした植物の反映があるレベルに到達すると、この酸素が原生動物の進化を助けていった、と考えられます。豊富な海の植物はまたかれらの食用となり、その面からも生物進化に貢献しました。そうした力を得て、やがて両生類は陸上に這い上がり、脊椎動物へと進化していきました。

「先カンブリア期、575 million years ago

魚類、カンブリア期、509百万年前

wheeler strale ,Formaion

Asaphis wheeleri(Meek)

Miclard Co.Utah.U.SA(アメリカ)」

 それからホモサピエンスが登場してくるまで5メートルくらいありません。僅か15歩足らずの道のりでも、目盛られたメモられた時間の方はそれまでにさらに5億年が経過していました。

 地球の命は、太陽からの程良い距離やよい加減な大きさなど、幾つもの偶然が重なり合うことによって支えられています。まさしく命を育むまさに「奇跡の星」であり、「宇宙のオアシス」といえるでしょう。その上で、さまざまな生物たちのドラマが繰り広げられてきたのでありましょう。

 このような悠久の尺度で見ると、わたしたちの一生は露が滴り落ちる時間もありません。宇宙が時を刻んでいることに比べれば、私たちの人生は余りにもはかなくも小さい。地球と生物の歴史から見ると人の一生は瞬時の出来事なんですね。その地球にもやがて命の尽きるときが来るとしたら、人類というものもやがては滅んで宇宙の時の刻みのなかに埋め込まれていくのでしょうか。
 そういう未来永劫の時空に浸ってみると、自分の命が例えようもなくいとおしく思えてきます。だからこそ、いまこのとき、この瞬間を大事にしたいと願う。これは幸せ体験の類に入ることなのかもしれません。

2000.11.2

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歴史・文化探訪8

Hisrory and Culture Western-Eastern8

 ゴッホのひまわり

フィンセント・ファン・ゴッホ ひまわり、1888年、95×73cm

(Sunflower drawn by Goho)

 西新宿の高層ビル街のなかに、安田生命ビルはある。東郷青児記念館が併設されています。そこでゴッホのひまわりを鑑賞することができます。1994年にはロンドンのテート・ギャラリーの所蔵であったと聞いているので、その後に彼の絵を日本人が購入したと思われます。ひまわりには何枚かのデッサンも付けられています。まさに圧巻ですね。

 眞贋論争もあった作品であるが、もちろんわたしには真偽のほどはわかるはずもありません。少しだけわかるのは、この作品の前に立ってみたとき、圧倒されそうな緻密感のようなものを感じることとか。日本人の描く花のイメージとは違いますね。尾形光琳のかきつばたは花びらの細かい表情までは踏み込んで描いていません。その一方、ゴッホのひまわりは橙から黄色までの細かい色遣いでそれが描き分けられている。デッサンとなると、この花が枯れ落ちていくときの表情さえ窺えるようなのです。

 ひまわりといえば、同名の映画がある。戦争と人間を扱った名作に違いないでしょう。そのなかで一面のひまわり畑が映し出される。列車から主人公の一人が愛してやまない人との別離の思いを込めて見る設定ですね。ポーランドかロシアの平原であるらしい。そこでのひまわりには大いなる哀愁が漂っていました。情熱の象徴である大輪のひまわりにも、そんな叙情が宿ることがありうるのでしょう。しかし、ゴッホの絵からはそんな人をして感傷に浸らせる風情は感じられそうにありません。もっと乾いた小麦色をした、温かい陽射しを浴びてきた情熱そのままの花ひまわりであるのでしょうか。
 ここで辞書をひもとけば、メキシコ原産のひまわりは赤いともいわれるが、まだお目にかかったことがありません。だから、とりあえずここではひまわりは黄色いものだとしましょう。ゴッホの「ひまわり」を見てから、わたしはその花をさまざまな場の中に見るたびに、肉眼ではまだ見たことのない南フランスの地アルルの陽射しを強烈に意識するようになりました。

2000.11.3

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作者不詳・苦行する仏陀像(2011年2月13日)

 仏陀その人は、日本では「お釈迦さん」といって親しまれています。そのお釈迦さんは小柄だったのか、膚は今のネパールの人と同じなのか、髪は黒か、瞳は茶黒か、それらを伝える話を私は知りません。

 ガンダーラ美術の傑作、苦行するブッタ像は余りにも有名ですが、あばら骨が浮き出ているその像は、いつ頃作られたのでしょうか。お釈迦さんはたしか35歳のときに悟りを開いたと伝えられるのですが、60歳の前になってもまだ「悟り」とはほど遠く、いろいろと人生の悩みや苦しみから抜け出せない私とは大きな差を感じます。


(続く)

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歴史散歩1

2009-04-18 09:57:30 | Weblog
歴史・文化探訪1

Hisrory and Culture Western-Eastern1

 国宝・七支刀

(a national treasure :Shichishitou(= a tresured sword))

 2000.5.1メーデーの帰りに上野国立美術館で開催中の「国宝展」を見に行きました。

 説明文にはこうありました。

「奈良県天理市石上神宮伝世

古墳時代4世紀

特異な形状の鉄剣で、表裏に61文字金象嵌される。

銘文は朝鮮半島をめぐる当時の倭の国際関係をうかがわせる記録的

文章である。」

 銘文に何が書いてあるかははガラスケース越しではよく読みとれませんでした。

ここでは現場での注釈によります。

「泰(和)四年(五)月十(六)日

丙午正陽造百練(鉄)

七支刀(出)百兵

宣供供侯□□□□付

先世以来有此刀百済(王)世(子)

奇生聖音故為倭王旨造伝示(後)世」



 素朴でつたない感想としては、なぜ七つの刃先なのかということです。わたしにはわかりません。祭祀用に用いる剣だったのでしょうか。

 それから、倭王とは誰なのかということです。当時の倭の国際関係は、朝鮮半島との関わり抜きには考えられないほど密接なものであったようです。「宣供供侯□□□□付」のところの読みの一部が不詳となっているのは、はたしてどのような含意なのでしょうか。

 一介の身の上でも、この疑問を訪ね歩いて、時代考証をする機会があったら試みてみたい。いいものを見せてもらったと思っています。



「「七支刀」(奈良県・石上神宮所蔵)は、369年に、百済が作製して倭王に送ったもので、こうした百済との関係樹立を記念したものである。ここに百済・加耶南部・倭の軍事的な同盟関係が成立したことになる。」(朝鮮史研究会「朝鮮の歴史」三省堂、1995より)

「石上神宮の宝物として、鉄盾とともに伝えられたもので、身の両側にそれぞれ3本の枝刃を左右交互に出す特異な形からこの名がある。鍛鉄製の剣身に金象嵌(きんぞうがん)の銘「泰□四年□月十六日」があり、ここでの元号は「泰和」とみるのが有力である。

 「日本書記」神功皇后52年の条に百済王が献じた重宝のなかに「七支刀」の記録があるのは注目される。」NHK出版編「国宝全ガイド」日本放送出版協会、1999より)

☆★

 この解説文のなかで腑に落ちないのは、泰和4年(369年)に百済王が倭王に「献上」したというなら、臣下なり同盟員が主人なり盟主なりに送ったことになりはしないか。この点について上田正昭「古代史の焦点」にはこう書かれてます。

「(石上神宮の七支刀は)全長74.9センチ(刀身65センチ)の鍛鉄の両刃づくりで、刀身の左右に3つずつの枝が違い違いに出ている呪刀である。その刀身の表裏に、金の象嵌で六十余字が刻されている。三度実物を吟味したことがあるが、惜しいことに下から約三分の一のところで、刀身は折れており、銘文もまた錆落ばかりでなく、故意に削ったところがあって、銘文の判読に困難な個所がある。

 そのため苦心の解読が多くの人々によってなされてきたが、これまでの読み方で、決定的に誤っているのは、泰和四年(396年)に、百済王が倭王に「献上した」刀などと解釈してきたことである。銘文の表に「候王に供供(供給)すべし」とある候王とは、裏の「倭王」をさす。まずなりよりもこの銘文の書法は、上の者が下の者に下す下行文書形式であって、けっして「献上」を意味する書法でもなければ文意でもない。それは百済王が候王たる倭王にあたえたことを意味する銘文であっ
た。それなのに、これを「献上」とか「奉った」とかなどと恣意に読みとったのは、我を優として彼を劣とする差別思想にわざわいされたものというほかない。」

 どなたか、この真意を汲み取っていただけるでしょうか。私には、上田氏の説の方が国宝展の説明文よりも信用できるように思えるのですが。

★☆

紀元前2世紀初め 衛氏朝鮮が成立する。

紀元前108年 前漢、衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪など4郡を置く。

紀元前82年 前漢、真番・臨屯の2郡を廃止する。

紀元前75年 前漢、玄兎郡をさらに西方に移す。

105年 高句麗、遼東郡を攻める。

106年 後漢、玄兎郡をさらに西方に移す。

2世紀末~3世紀初め 公孫氏、帯方郡を置く。

3世紀初め高句麗、国内城(丸都城)を都とする。

244年魏、高句麗を攻める。

3世紀中頃 三韓、帯方郡をせめて、太守を敗死させる。

313年頃高句麗、楽浪郡を滅ぼす。

342年前燕、高句麗を攻めて、国内城を破壊する。

371年百済、高句麗を平壌で破り、故国原王を敗死させる。

372年高句麗に仏教伝わる。百済、晋に朝貢する。

377年新羅、高句麗とともに前秦に入貢する。

384年百済に仏教伝わる。

391年広開土王即位する。

414年陵碑を建てる。

427年、高句麗、平壌城に遷都する。

475年高句麗、百済の漢山城を落とし、蓋歯王を殺す。百済、熊津城に遷都する。

朝鮮史研究会編「朝鮮の歴史」三省堂、1995

2000.9.10

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歴史・文化探訪2

Hisrory and Culture Western-Eastern2

 メソポタミアの世界最古の土器

( oldest earthware in Mesopotamia )

 9月13日の午後、昼から休みを取って世田谷区立美術館で開催されている「メソポタミア文明」展を見学に行きました。

「前4世紀

彩文土器

卍と矢羽十字の装飾のある深い鉢

スーサ、アクロポリス

スーサ王朝、前4000年頃」

 いまから6000年前の土器を見たのは、今回が初めてでした。土器の形は逆ラッパ状の簡素なものです。白っぽい肌色をしていました。その内面に卍と矢羽十字の装飾が黒い線で描かれていました。

 わたしはこれを見て、メソポタミアは土と泥の文明といえるのではないか、と思いました。チグリスとユーフラテスの大河にはくぐまれた大地で、麦を収穫していた頃の部族国家の光景がスクリーンに撮し出されていました。

 この土器に麦飯を入れて、かれらは食べていたのだろうか。何をおかずにしていたのだろうか。独特の彩色模様は何かの呪文を意味していたのだろうか。興味は尽きません。

9.15.2000

 それから、最近はこのメソポタミアの歴史と日本の歴史とを重ね合わせてみる必要を感じています。三内丸山遺跡などの発掘によって縄文人の生活が明らかになってまいりました。稲作は今からおよそ2300年前に朝鮮半島から伝えられたのが始まりであると考えられていましたが、最近岡山県で発掘された籾は、4500年前に遡るといいます。
 だが、田圃を設けてそこに水路を引いて農耕を営むまでは至っていなかった。技術的にそこまで思いいたらなかったのか、それとも縄文期の生活スタイルをあえて変えようとしなかったのかはわかりません。メソポタミアに言葉があり、楔形文字が発達していた文明の証を、そのまま縄文期の日本に求めることはできないでしょうが、何らかの新たな発見があるのを期待したいと思います。

 嵐山町にお住まいの博物誌編纂係長・植木弘さんは、「結果的に彼らの選んだ生活スタイルは、価値観であり、哲学であり、長い間守られていた文化なのである。決して彼らの知能や文化のレベルが低いということにはならない。むしろ、自らの文化に誇りを持っていると考えた方がよいだろう」(広報嵐山、2001年6月1日)と述べていますが、何でもグローバル化が言われる今日、個々のものがちゃんと把握されてこそその視点が生きる、ということを教えた言葉であると思われます。

6.17.2001

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歴史・文化探訪3

Hisrory and Culture Western-Eastern3

 バビロニアのハンムラビ法典

(The Code of Hanmuravi by King Hammerabi of Babylonia)

 小学校から高校までの教科書に必ずといっていい程入っている「ハンムラビ法典」にも、世田谷美術館で出会いました。

 発掘されたのは、エラム王国の都が有ったところで、ここは後のペルシャ帝国の都でもあったとされています。

「エラム王のミュトルク・ナフンテ王によりスーサへ、前1150年頃」

「紀元前12世紀、バビロニアに進出したエラム人が戦利品として持ち帰った。」

 その前に立つと、堂々とそびえ立つ2メートルばかりの黒玄武岩の大石がわたしの目に迫ってきました。最大限上半身を前のめ

りになって、壁面の字を捕まえようとするのですが、老眼の入り始めた目にはぼやけてしか見えません。

 石の表上部には、彫刻が施されていました。向かって右側に太陽神ャムシュが鎮座しています。その部分の左には、ハンムラビ

王が立って、神から杖と輪を授けられていました。

 これらは、権力と支配の象徴であったらしいのです。彼が君臨したのは紀元前18世紀、今から3700年以上前とされています。

 壁に埋め込まれたビデオによれば、法典は282条から成っていて、代表的なものは次の2つとされていました。

「もし人が他人の目を潰したら、その人の目を潰す」

「もし人が用水路の整理を怠り、近隣の畑に水を溢れさせた場合、麦の損失を補償しなくてはならない」

 今回カラチの国立博物館から日本へ渡ってきたことで、肉眼に収めるチャンスが巡ってきたのです。今は、それを射止めた喜び

にしばし浸ることができました。

2000.9.15

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歴史・文化探訪4

Hisrory and Culture Western-Eastern4

 運慶作「大日如来像」

(A national treasure:The body of Daiichinyorai(=a spaceman in

Buddhism.He is'nt Budda.He is a incarnation of universe.) produced by

Unkei)

 七支刀に新鮮な異文化に触れる思いがしたのに対して、運慶の大日如来像は日本文化の精髄に触れているという感覚がありました。

 群を抜いて素晴らしいものは、わたしのような仏像鑑賞の素人にとっても「なんとなく」わかるものではないでしょうか。

 凛とした若々しい仏の姿、深い緑の文様による飾りが被せられている。これはかつて横浜のそごう美術館で鑑賞したピカソの傑作に劣らない。いや、それよりも上を行くのではないかと思いました。

 順番を待っ「目を皿のようにして」、4回もじっくりと鑑賞したせいか、5月1日から数ヶ月たった今もごく細部の装飾までありありと覚えています。

 大変貴重なものを見させていただきました。おそらくは、いにしえの朝鮮半島から下ったのであろう偉大な先達を持って、日本人としての誇りさえ感じたのは、私にとって幸せなことでした。

2000.10.22


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