『美作の野は晴れて』&『自然と人間の歴史・世界篇』&『自然と人間の歴史・日本篇』&『岡山(美作・備前・備中)の今昔』

自分史と、世界史と、日本史と、岡山の民衆史です。『自然と人間の歴史・世界篇』と『自然と人間の歴史・日本篇』は全面改訂中。

(270)『自然と人間の歴史・日本篇』生存権

2017-08-09 10:25:49 | Weblog
(270)『自然と人間の歴史・日本篇』生存権

 憲法の生存権規定に関わるところでは、朝日訴訟がある。そもそもの舞台は岡山であった。1957年(昭和32年)8月、東京地裁に対し、重度の結核で、当時の岡山県都窪郡早島町(つくぼぐんはやしまちょう、現在の倉敷市か)にあった国立岡山療養所に長期入院中であった朝日茂さんが、憲法25条に定める生存権に関わる訴訟を提起した。これを「朝日訴訟」と呼ぶ。
 彼は、津山の出身で、この療養所に入所してから、生活保護法に基づく医療扶助と月額600円の日用品費の生活扶助を受けていた。朝日氏は保護内容の改善を訴えていたのだが、入所から14年後の1956年(昭和31年)、管轄の津山市社会福祉事務所が、身寄りがないと思われていた朝日氏に実兄がいることを突き止めた。彼の兄は満州から帰国したのち、宮崎県で暮らしていたのだった。そこで、福祉事務所はその実に対し、月1500円の仕送りをするように話をつけた。それからの朝日氏は600円の給付に加え、毎月1500円の仕送りを受け取る事ができるようになっていたのだが、長続きしなかった。というのは、岡山県の津山市社会福祉事務所長は、この1500円から生活扶助の600円を差し引くことにする。生活扶助として支給されていた日用品費に充てさせよう目論む。すると、生活扶助は廃止扱いとならざるを得ない。さらに残りの900円を、医療費の一部自己負担分として朝日氏に差し出せ、という内容の保護変更決定を行った。
 朝日氏は、この決定を不服とし、不服申し立てを三木行治岡山県知事(当時)に対し行った。そこでの朝日原告の主張の主旨は、少なくとも仕送りから1000円を日用品費として手元に残して欲しいというものであったが、却下された。さらに小林英三厚生大臣(当時)へ再審査請求したものの、これも却下されてしまう。これに不服の朝日氏は、1957年(昭和32年)、朝日氏は当時の堀木鎌三厚生大臣に対し、現在の生活保護給付金600円では、憲法25条と生活保護法に定める「健康で文化的な最低限度の生活を営む」ことはできないとする行政裁判を起こした。
 この裁判において、第1審の東京地裁は、日用品費月額600円という保護基準では、憲法が規定する「健康で文化的な最低限度の生活水準を維持する」には足りない違法なものである、という原告の主張を認め、本件保護変更決定を憲法25条の趣旨に合致せず違法と判断し、厚生大臣の却下採決を取り消した。ところが、第2審の東京高裁は異なった。本件の月額600円という保護基準は「すこぶる低額」ではあるけれども違法とまでは断定できないというのだ。第1審東京地裁判決が取り消されたことから、朝日氏は最高裁に上告した。
 その後、1964年(昭和39年)に朝日氏の病状が悪化し、裁判の行方を見届けることなく帰らぬ人となった。これに伴い、本件訴訟は朝日氏の養子が相続人として引き継ぐ姿勢を見せたものの、1967年(昭和42年)5月、最高裁は、朝日さんの死亡によってこの訴訟は終了した、という判断を明らかにした。そして、最高裁は、「念のために」として、日本国憲法25条の「生存権」は、個々の国民に対して具体的な権利を保障したものではなく、その実現のために国政を運営すべき責任が国にあるということを宣言したものに過ぎない。これにより、なにが「健康で文化的な最低限度の生活」にあたるのかは、国の裁量に委ねられており、その裁量権の行使に著しい濫用がある場合は除き、国による生活保護基準の決定が直ちに違法とされることはない、という、これを「プログラム規定説」と呼ぶ。
 ハンセン病は、古くは「らい病」といって、簡単に感染するのではないかと恐れられてきた。この病は、20世紀半ばまで治療するすべがなかった、とも言われる。その患者は古代から世界中にいた。『旧約聖書』のレビ記13章45~46節には、「患部のあるらい人は、自分の衣服を引き裂き・・・「汚れている、汚れている」と叫ばなければならない。・・・彼は汚れているので、ひとりで住み、その住まいは宿営の外でなければならない。」などとある。かの有名な映画の『ベンハー』にも、多くのハンセン病患者がいるところへ主人公の妻などが訪れる場面があったように思う。そのため、1907年(明治40年)に「らい予防に関する件」が制定され、救護者のいない患者を対象に世間一般から隔離する政策が始まる。以来、新たな患者が判明する度に全国の患者が強制的に専用の施設に隔離されていく。主に列島各地の島や海岸部に集中した。瀬戸内では、瀬戸内海に面した岡山県や香川県の施設に集められることで、集中的な社会からの隔離が進められる。1931年(昭和6年)、らい予防法(いわゆる「旧法」)が制定される。
 1948年(昭和23年)には、患者への断種、中絶手術を認める優性保護法が制定される。1952年(昭和27年)になると、WHO(世界保健機関)が患者の隔離を否定し、外来で診療することを提言する。1953年(昭和28年)には、らい予防法(いわゆる「新法」)が改正された。それでも、少なくない専門家が、なおねハンセン病患者を隔離する必要性を唱え続けるのであった。1988年(昭和63年)から2001年までの間、患者の人権を無視した社会隔離を盛り込んだ、らい予防法への違憲国家賠償訴訟が取り組まれていった。1996年には、らい予防法の廃止があった。これでようやく、患者たちの人権に陽が当たり始める。
 その後も1998年、元患者13人が国を相手取り熊本地裁に初の提訴が行われる。2001年5月には、熊本地裁が国のこれまでの隔離政策を違法とする判決を出す。これに対する国は控訴を断念し、同判決が確定した。同年6月、元患者らに補償金を支給するハンセン病補償法が施行される。2014年12月、患者の裁判が裁判所のらち外として処理されていた件につき、これを問題とする最高裁判所が元患者への聞き取り捜査を開始する。2015年9月には、鳥取地方裁判所による、ハンセン病患者の被害に対する損害賠償責任を認める初めての判決があった。そして迎えた2016年2月、これまでの隔離政策で不当な差別を受け続けたとして、元患者家族が国家賠償補償法による賠償を国がするよう、熊本地方裁判所に集団提訴を行うに至る。
 では、この間の患者隔離の現場では、どのようであったのだろうか。1世紀近くに渡る患者の隔離は、瀬戸内海に面する施設でも続いてきた。長崎愛生園は、1927年(昭和2年)の勅令第308号をもって国立らい療養所として離島長島に設立が決まり、1931年(昭和6年)から患者の受け入れを始める。邑久光明園は、1907年(明治40年)の法律第11号「らい予防に関する件」の制定により、その2年後に大阪市の外島の地に「外島保養院」として開設されていたのが、1934年(昭和9年)の室戸台風によりに全壊していたのが、1938年(昭和13年)になって、全国各地に分散して収容されていた309名の患者が集められ、瀬戸内のこの地に再興された。2015年10月現在の岡山県下では、長島愛生園が217人で平均年齢は84.5歳、邑久光明園が126人で、平均年齢84.9歳、そして大島青松園(香川県高松市)が68人で平均年齢82.9歳である(山陽新聞2015年10月15日付け)。1943年(昭和18年)にはこれら三つの施設で計約3900人が収容されていた。それが今年の9月末には411人まで減少している(同紙)。なお、現在、入居者のうちほとんどは、ハンセン病自体は治癒していているものの、高齢もあり、社会復帰が難しい状況でこの施設に留まっている、とのことである。
 2015年のいま、これらの瀬戸内3園で進めている、関連施設を中心にユネスコの世界遺産に登録してもらおうとの運動が立ち上がっている。しかし、周辺自治体の消極姿勢もあって、なかなかに進まないのが現状のようである。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« (269)『自然と人間の歴... | トップ | (271)『自然と人間の歴... »

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL