『美作の野は晴れて』&『自然と人間の歴史・世界篇』&『自然と人間の歴史・日本篇』&『岡山(美作・備前・備中)の今昔』

自分史と、世界史と、日本史と、岡山の民衆史です。『自然と人間の歴史・世界篇』と『自然と人間の歴史・日本篇』は全面改訂中。

(74)『自然と人間の歴史・日本篇』承久の変

2017-08-05 21:11:02 | Weblog
(74)『自然と人間の歴史・日本篇』承久の変

 そして迎えた1192年(建久3年)、源頼朝は、武家勢力にとって最大の対抗勢力である後白河法皇(ごしらかわほうおう)も世を去っていた朝廷から征夷大将軍をの称号を受け、東国の鎌倉で幕府をひらいた。1199年(正治元年)に頼朝が没すると、幕府内部の有力御家人の間の権力闘争が激しくなる。暗闘を仕掛ける主役は、北条氏であった。まずはその年のうちに、美作の守護でもある梶原景時の失脚と滅亡が起こる。1203年(建仁2年)には比企能員(ひきよしかず)の乱で比企氏が滅ぼされる。私の今住んでいるところを領していた豪族である。1204年(元久元年)には、大胆にも二代将軍の源頼家(みなもとよりいえ)の暗殺を演出してのけた。
 翌1205年(元久2年)になると、武蔵の国の畠山重忠(はたけやましげただ)を神奈川に呼び出しての、だまし討ちを果たす。この時の重忠は、まだ死地を脱して本拠地(現在の埼玉県比企郡嵐山町)に引き返して応戦することもできたのだが、逃げずに二俣川の闘いで死んでゆく。それは、関東武士の剛胆さと潔さの典型といえよう。同年、北条時政による将軍廃立の陰謀が画されるが、未遂に終わる。彼の娘は頼朝の妻でもあった北条政子にほかならない。1213年(建暦3年)には和田義盛の挙兵と敗死が起こる。そして1219年(健保7年)、3代将軍源実朝(みなもとさねとも)が北条義時の策謀によって暗殺されるという、めまぐるしさであった。鎌倉幕府の将軍たる者がこうして北条氏によって殺害されて後は、北条氏が将軍を補佐する執権職として鎌倉幕府を実質支配していく。
 北条氏が牛耳るようになった鎌倉幕府は、全国に守護(しゅご)、地頭(じとう)を配置しての武士による政治を行っていく。ここに地頭職とは、一体何者なのか。幕府の下部組織であって、年貢、公事(くじ)、夫役(ふやく)を主に荘園などの農民から取り立てたり、人夫を調達するなどの仕事を万端整えるまでに成長していた。1221年(承久3年)には承久の変が起こる。この変の発端から、武士側の結束による終結までを時系列で追うと、概ねの流れはこうである。
 1221年(承久3年)旧暦5月14日、後鳥羽上皇は、鳥羽城南寺の「流鏑馬揃え」を口実に北面、西面の武士、近国の武士、大番役ら在京の武士1700余騎を集める。5月15日には京方の藤原秀康が率いる800余騎が京都守護・伊賀光季(いがみつすえ)を討つという事件が起こる。同日、後鳥羽上皇は諸国の御家人、守護、地頭らに北条義時追討の院宣を発すに至る。その後鳥羽上皇の宣旨(書き下し文)とは、つぎのようであった。
 「右弁官下す、五畿内諸国(東海、東山、北陸、山陰、山陽、南海、太宰府)
 まさに早く陸奥守平義時朝臣(あそん)の身を追討し、院庁に参り裁断を蒙らしむべき、諸国荘園守護人地頭等の事。
 右、内大臣宣す。勅を奉るに、近曾(さいつころ)関東の成敗と称し、天下の政務を乱し、○(わず)かに将軍の名を帯すと雖も、なお以て幼稚の齢にあり、然る間彼(か)の義時朝臣、偏に言詞を教命に仮り、恣(ほしいまま)に裁断を都雛(都鄙?)(とひ))に致し、剰(あまつさ)え己(おの)が威を耀(かがや)かし皇憲を忘るるが如し。これを政道に論ずるに謀反と謂うべし。早く五畿七道(ごきしちどう)諸国に下知(げじ)し、彼(か)の朝臣を追討せしめ、兼てまた諸国荘園守護人地頭等、言上を経べきの旨あらば、各院庁に参り、宜しく上奏を経べし。状に随いて聴断せん。そもそも国宰ならびに領家等、事を○○(ふつ)に寄せ、更に濫行を致すなかれ。○(こと)これ厳密にして違越せざれてえれば、諸国承知し、宣に依りてこれを行え。
承久三年五月十五日
大史三善朝臣、大弁藤原朝臣」
 同5月19日、鎌倉に変事の一報がもたらされたが、武士達は動揺を隠せない。三浦義村をはじめとする有力御家人が鎌倉幕府に忠誠を誓う。古参の大江広元が直ちに軍を京都に向け派遣すべきだと発言する。これらに意を強くした北条政子は、馳せ参じた御家人たちに向かって頼朝以来の恩顧を訴え上皇側を討伐するよう訴え、動揺は鎮まる。その政子の演説は、『吾妻鏡』よれば、こうある。
 原文:「二品、招家人等於簾下、以秋田城介景盛、示含曰、皆一心而可奉。是最期詞也。故右大將軍、征罰朝敵、草創關東以降、云官位、云俸禄其恩既高於山岳、深於溟渤、報謝之志、淺乎。而今依逆臣之讒、被下非義綸旨、惜名之族、早討取秀康胤義等、可全三代將軍遺跡。但欲參院中者、只今可申切。者群參之士、悉應命、且溺涙、申返報不委、只輕命思酬恩。」
 書き下し文:「(にほん・従二位の北条政子)、家人等を簾下に招き、秋田城介景盛(安達景盛)を以て示し含めて曰く、皆心を一にして奉るべし。是れ最期の詞なり。故右大将軍朝敵を征罰し、関東を草創してより以降、官位と云ひ俸禄と云ひ、其の恩既に山岳よりも高く、溟渤よりも深し。報謝の志浅からんや。而るに今逆臣の讒に依りて、非義の綸旨を下さる。名を惜しむの族は、早く秀康・胤義等を討ち取り、三代将軍の遺跡を全うすべし。但し院中に参らんと欲する者は、只今申し切るべしてえれば、群参の士悉く命に応じ、且つは涙に溺みて返報を申すに委しからず。只命を軽んじて恩に酬いんことを思ふ。」
 こうして征討軍を朝廷に差し向けることが決せられ、旧暦5月22日には、鎌倉の軍勢が東海道、東山道、北陸道の三方向に分かれて京に向かう。後に幕府軍は「19万騎」となったとも言われる。同6月10日になると、比叡山延暦寺は後鳥羽上皇の援軍依頼を拒否するに至る。頬って置いても味方の兵が蝟集するだろうとたかをくくっていたらしい後鳥羽上皇の思惑は外れた格好になる。同6月13日、京方と幕府軍が宇治川で衝突する。翌日、幕府軍は渡河に成功し宇治、勢多の敵陣を突破し、京方は潰走する。同6月15日、幕府軍15万余騎が京都に入って、院側の寺社、京方の公家、武士の屋敷に火を放つ。後鳥羽上皇は北条義時追討の宣旨を取り消し幕府に従う意向を表明せざるをえなかった。その報せが鎌倉に下ると、幕府は、京都に六波羅探題を設置し朝廷に対する統制を強化する決定を行う。
 そして迎えた同7月13日、幕府は、承久の乱首謀者である後鳥羽法皇を隠岐国へ配流する。同7月21日には、順徳上皇が佐渡国へ配流される。同10月10日になると、討幕計画に反対していた土御門上皇は自ら望んでか土佐の国に配流されていき、この承久の変は幕府側の勝利でけりがつく。一方、御家人のうちで朝廷方にくみした武士たち、五島基希代清、大内惟信らは死罪となる。

(続く)

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