○○207『自然と人間の歴史・日本篇』頻発する農民一揆(磐城平元文一揆、美濃郡上一揆、1738、1754)

2017-08-07 17:55:07 | Weblog

207『自然と人間の歴史・日本篇』頻発する農民一揆(磐城平元文一揆、美濃郡上一揆、1738、1754)

 人の時を思うとは、どんなときであろうか。1738年(元文3年)、磐城(いわき)の平藩(たいらはん)で、農民一揆が起きた。これを、「磐城平元文一揆」(いわきたいらげんぶんいっき)と呼ぶ。これより前の1622年(元和8年)、鳥居忠政(譜代)が山形藩に24万石にて転封されると、磐城平藩には内藤政長(上総国佐賀であった)が7万石で入部した。内藤氏は小川江を開削し新田開発に努めるなど、100年以上、磐城平を治める。享保期に入るや、幕府から命ぜられた日光参宮普請手伝,渡良瀬川改修手伝などの臨時支出やで出費がかさんだ。
 これらによる藩の財政危機を打開するため、6代目の内藤政樹の代には、従来からの稲作に対する年貢の増徴のみならず、領内の特産品に対して新税を賦課するなど、この間農民たちが副業に努めて商品生産にかかわっていたのに対する課税(賦課や運上金)の強化・追加を強めていく。具体的には、一揆の直前に平藩が設定した賦課には、駒立足役・歩役・小名浜三節句役(おなはまさんせっくやく)・清酒造役・濁酒造役・糀室役・紺屋役・鍛冶役・山年貢・郷士与力役・鍛冶炭役・炭汁払役・四町目および箱板払役・見世店役(みせだなやく)・捧手振役(ぼてふりやく)・質屋役があった。運上金についても、茶・繰綿・木綿・麻・たばこ・呉服絹といった、あれやこれやの広範囲に亘っていた。まさに、水も漏らさぬ搾取と収奪策、と言って良いだろう。
 このような藩のすさまじい年貢増徴策に対し、稲作のほかこうした諸方面に力を入れて農業経営をに務め、ようやく維持してきた全領の農民たちは、激しく反発する。そして、「このままでは、生活はどんどん厳しい状況に追い込まれていく」と思い詰め、いよいよ立ち上がる。一揆勢が行った申し合わせは、きめ細かなものであった。①古木綿着用、②藁で編んだ蓑を上着とする、③頭巾は藁に砂を入れ二重とする、④百人一組で鉄砲馴れたる者拾人を添える、⑤飲用のため汁椀一個を腰より下げる、⑥五日分の飯米を各自で用意する、⑦竹の節を抜き法螺貝の代わりにするというのが、いでたち(身支度)に関するもの。加えるに、⑧家一軒より一人の外出間敷事、⑨貢米は一粒にても納入せぬことが原則、⑩廻船の帆を持ち来たり陣幕にする、⑪常陸国相馬、仙台界に五百人を置き他藩加勢を防ぐことになっていた。
 その要求項目としては、次の21か条が立てられた(庄司氏による前掲論文から転載)。
 「内藤備後守様惣百姓願書
 乍恐以書付奉願上候御事
下片寄村名主、西郡久次良
一、此度被仰出候儀者当年より七ケ年之間歩役金百石二付金壱両三分宛々年々御上納仕候様被仰付候所、田畑御物成高免二付百姓共殊之外困窮仕候間御免被遊被下置候様奉願候事。
一、本田畑去巳年御免状之内取弐ツ五分御引下ケ被遊被下置候様奉願候、右願之通り被仰付被下候ハバ百姓一同難有仕合奉存候事。
一、新田所茂右相応じ御引方奉願上候事。
一、村々定種之利足年々上納仕候二付御年貢之外二御座候得共百姓困窮罷成難儀仕候間依之此度奉願上候得ば定種之儀元利共御免被遊被下僕様奉願上候事。
一、定種之利山年貢去已之年御借り上之分御返済奉願候事。
一、六年已前丑之年より被仰附候貯籾、種大麦、稗惣百姓方へ被下置候様奉願上候事。
一、尤百姓御救二而貯石被仰付候ハバ御蔵出俵二而百姓方へ御渡し被遊年々取替貯候様被仰被候ハバ百姓共御年貢御上納相込り百姓共御年貢之外過役被仰付候得は百姓殊の外無力万民難儀仕候事。
一、万掛物マ切御免二奉願上候事。
一、御検見二大廻り様方御大勢二而は百姓共収納之節、歩伝馬難儀仕候間御小勢二而御廻り被遊候様奉願候猶又御見分之儀も以上稲御様し懸り被遊御上納御取立被仰付候二付百姓難儀仕候、何卒以御慈悲上中下二而御様し御取立奉願上候事。
一、年二より悪作又は風逢、水損之悪毛二而小検見ヲ奉願候節は御見分之儀御目鏡之悪毛二而御拾被遊候様百姓共御願、悪毛二而御様し被遊候上中下ヲ御平均御差引被仰被付被下置候様奉願上候事。
一、脇西成御他領救方御検見二も上中下を御平均之様二兼而承来り申候事。
一、万御買物代並御普請人足日雇扶持前共二御上より相応二被下僕様及承候得共百姓方へは、割付之儀少茂無御座是ハ御上様御非分の様奉被候御役人様方何之御差引二も被遊候哉、中途二而減少仕候様奉存候間明白二百姓方へ割下ケ御仰付枝下置候様本願候事。
一、御馬屋御用糠藁、松葉之代金も右御買上物代金同前二御座候間相納候節才料二早速御渡し被下候様奉願候事。
一、三年以前辰年慶長金文字金同通用御公儀様より被仰出候由御他領二而は古金文金取合同通二仕候様参り及候得共御当領二而は三分壱ノ割合二此度被下置候様奉願上候事
一、此度被仰付候諸商売諸役御免二本願候事。
一、中寺村藤左衛門、馬買場山之入村五力村二相極メ置中使二付難儀仕候間勿論買物相窺不申候様奉願上候事。
一、雑石問屋之儀者平町江弐軒相立候様被仰付可被下候毎度御代官より平へ願雑穀問屋御座候故是非御領内之者とも他領之者に吟味いたし雑穀払兼申候願之通り問屋弐軒被仰付枝下置候ハバ難有仕合奉存候以上。
一、只今迄之御物成二壱九三ヲ掛け村凌より納来り候得共百姓困窮仕候間此以後御免被遊候救奉願候事。
一、御札馬之儀は籔上候て早速他領江払候共御免奉願候、只今迄は札馬二相成候得は老馬二相成候ても他所払御免無之百姓甚だ難儀仕 候間願之通り御免被遊被下置度奉願上げ事。
一、鉄砲御役銭之儀惣而御免奉願候事。
一、、苡髟ト山之入より下り申候二付、村々より役馬を差出申候駄賃之儀御公儀様より者共時々相渡候様二承り候得とも百姓方へは年送 り方々罷成兼相渡候不申候其時之問屋共より相渡し候様被仰付被下置度奉願上候事。
前書の通奉捧願候儀者近年百姓共殊之外無力困窮仕候二付奉願候、右之外奉願上候儀数多候得共御上様、恐多奉存候二付御願候不上ス、以御慈悲以前書奉捧願候通り被仰付被下置候ハバ惣百姓難仕合奉存候。
以上
元文三午年九月十八日
御領内惣百姓」
 これらのうち主なものとしては、まずは「新税七箇年間小物成り歩役金百石につき一両三分宛納入御免」、つまり、百石につき一両三分の歩金の免除を願う。次には、「本田畑の貢租二割五分減租」とある。さらに「新田畑税相応の減免」とは、新田は前々の通りとされたい旨の願いである。それから「万掛物一切御免」「諸商売諸役御免」とは、要するに「多様な形態の一切の雑税(金納形態の歩役金)は免除してほしい」旨、等々。
 この大がかりな一揆のその後の事の成り行きは、次のようであった。それは、惣百姓(そうひゃくしょう)が激しい打ちこわしを伴う「全藩的一揆」へと発展した。すなわち、磐城平藩領の立ち上がった「百姓五万程」のうち、2万人が城下に押し寄せ、町役所や牢屋・役人宅を襲撃し、藩に訴状(前述の21か条など)を差し出した。会所の諸帳簿の破棄、入牢中の仲間の脱獄を求めたり、幕府の目安箱への投書のため人を派遣するなど、広範な活動があった(その詳しい経緯については、例えば、庄司吉之助『幡体制の確立と百姓一揆ー元文三年平藩一揆について』福島大学東北経済研究所『東北経済』1964年7月30日)。
 なお、ここに「百姓五万程」と見えるのは、住吉神社所蔵の棟木木簡(もっかん)にて「元文三年七月二日より取付候所、同九月十八日騒動有之城下江百姓五万人程押寄申候」とあり、また幕府の人口調査で元禄年間の総人口が6万5538人であったことからも、ほぼこの位の一揆参加人数であったのではないか。
 かくも大規模な闘争の結果としては、一揆勢は武士階級の奮った武力の前に屈した。しかも、農民の訴えの本筋は、はぐらかされるか、認められず(詳細は前掲の庄司論文)。指導者7人が鎌田河原で処刑された。当時の藩側史料によると、「元文4年8月23日去秋百姓騒動の節、両会所其外所々打破り法外なる仕不届ニ付其砌より牢舎申付置かれ候者共公儀御伺済の上御仕置相成る吉田長冶兵衛、武左衛門、鎌田川原にて打首七日曝し。利右衛門。与惣冶。理四郎。五三郎。伊三郎同打首して三日曝し。甚五兵衛 牢屋にて打首。獄舎から救われた喜惣冶も十一月曲田で打首。藤三郎追放。下高久村の太平次と下船尾村の伝兵衛はその村にて幽閉の沙汰下る」とある。
 かくも大規模な百姓一揆の罰として、幕府により、内藤氏は延岡藩に移封される。その後、井上氏(譜代、6万石、後に大阪城大となって遠江国(とおとうみのくに)浜松へ去る)を経て、1756年(宝暦6年)に安藤信成(それまで美濃国加納)が磐城平藩を継いで5万石待遇で入国し、そのまま幕末まで領国支配が続いた。
 1754年(宝暦4年)に美濃国郡上藩(みののくにぐじょうはん、現岐阜県郡上市)で大規模な農民一揆が発生した。これを「美濃郡上一揆(みのぐじょういっき)」(「宝暦騒動」、「宝暦郡上一揆」ともいう)と呼ぶ。発端は、藩主金森頼錦(よりかね)治政下、年貢増徴のために採用しようとしていた検見取(けみどり)などにあり、これに反対して、郡上の三千人を超える農民が「那留ヶ野子持ち杉」のそばに集まった。その場に設置された碑文には、こうある。
 「那留ヶ野子持ち杉の跡
 今から250年前宝暦年代当時の、郡上藩主(金森公)の悪政高い年貢に耐えられない農民代表、数十名が、ここ帳締谷近くに際立ってそびえ立つ子持ち杉、(大小2本の又になって並び立つ杉)を目当てに、下川筋(現・美並町方向)、明方筋(現・明宝町方向)、上ノ保筋(現・高鷲町方向)、より密かに集合したという、その子持杉はここに立っていた。数十年前まではその杉の株が、僅かに残っていたが今は分かりにくい。郡上農民全体の生活を守る為命がけで行動を起こした先人達(立百姓)の偉業の跡の、子持杉については、末永く子孫に語り伝えたいものである。平成16年(2004年)12月、宝暦義民慰霊の会、郡上御六字会」
 この場所で意思統一した農民たちは、八幡城へと押しかける。農民たちが要求したのは、検見廃止をはじめ諸課役廃止16か条をもって、城中御蔵会所に乱入して藩に要求し、藩は一度はそれを受理した。懸案の検見については、導入見送りの一筆をとりつけた。
 ところが一年後、事態は一変する。なんとかうまく事をおさめたい藩は、幕府の美濃郡代青木次郎九郎に働きかけ、農民たちの頭越しに郡内庄屋36人に検見取を承知させた。
農民達は、これに反発を強める。この一揆は、1758年(宝暦8年)に幕府が藩主金森氏の断絶を申し渡して幕を閉じるまで、闘い続けられた。現在に伝わる一揆の碑には、「この碑に写されている傘連判状は宝暦6年3月首謀51名が那留ヶ野に集まり署名して決死目的遂行の心底を固め合ったもので前後上下のわからぬよう円形に書かれたといわれている。ここに遠い先祖の苦闘をしのび不屈の精神を広く世に伝え永くその義挙を顕彰するため碑を建立した」とあって、当時の農民たちの決意の程が窺えるものとなっている。

(続く)


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