『美作の野は晴れて』&『137億年の日本史』&『岡山(美作・備前・備中)の今昔』

自分史と、日本史と、岡山(美作・備前・備中)の民衆史です。

◎新(3の2)『137億年の日本史』新生代からの日本列島(1500万年前頃前後)

2016-10-19 08:14:20 | Weblog
(3の2)『137億年の日本史ー美作・備前・備中の今昔』新生代からの日本列島(1500万年前頃前後)

 さて、1975年(昭和45年)になって、埼玉県秩父市大野原の荒川岸で、地元の高校生により哺乳動物化石の発見があった。「パレオパラドキシア」(学術名で「昔の矛盾」という)のものとみられ、体長が2メートル程もあり、海に棲息していたのだという。朝日新聞(2015年11月15日付け)によると、どうやらその頃の日本列島には、湾や入江、島が多数点在していたようで、最近その一部の標本が一般に公開された。
 「秩父地域に海があり、「湾」になっていたことを示す六つの露頭(ろとう、地層の露出した崖)と化石標本が、国の天然記念物に指定される見通しとなった。国の文化審議会が20日、日本列島が形成された当時の地殻変動や生物の状況を示し、天然記念物にふさわしい、と文部科学相に答申した。指定されれば県内で48年ぶり。県内の国天然記念物は12件となる。
 県教育局によると、指定されたのは「古秩父湾(こちちぶわん)堆積(たいせき)層及び海棲(かいせい)哺乳類化石群」。秩父市と皆野、小鹿野、横瀬の3町に分布する露頭と、周辺で発掘された哺乳動物「パレオパラドキシア」などの化石9件で、複数の露頭と化石群の複合指定は国内初めて。」
 現在の秩父盆地一帯に、約1700万年前、「古秩父湾」と呼ばれる東に開いた湾が誕生した。それは、日本列島が誕生して間もない頃のことだ。列島といっても、今日のような形では到底なく、「関東山地を中心とした地域は一つの島を作り、現在の秩父盆地の西縁まで海が広がっていました」(埼玉県広報紙「彩の国だより」2016年3月号、No.542)とされる。約1600万年前になると、関東山地全域が沈降すると、ほぼ関東全域が深海に沈む。約1550万年前には断層運動で湾の東側が隆起する。そのため、砂や泥の堆積で浅い海に姿を変わる。そうなってくると、海に生息するほ乳類(海棲ほ乳類)が気持ちよく泳ぎ回ることができたのだろう。そして1500万年前頃になると、東側の土地の隆起がさらに進んで湾が閉ざされるに至る、ついには古秩父湾が消滅したと考えられている。
 ここに棲息していたとされる「パレオパラドキシア」は、新生代に属する新第三紀の最初の世、中新世(今からおよそ2300万年前~530万年前)の地層から見つかった。この中新世の初期には、ヒマラヤ・チベットの地層の上昇のあったことが確認されている。この時代の地層は、「日本では分布が広く、各種の化石に富み、石油、石炭の主要産出層準になっている」(ブリタニカ百科事典)とある。この地層からはそのほか、「チチブクジラ」の化石も見つかっているとのことである。クジラの祖先は、およそ5300万年前にいた陸上生物パキケトゥスが再び海に戻ったために前脚と後脚が退化したと考えられている。
 では、日本列島の西での状況はどうであったのだろうか。一例として、瀬戸内海を選んでみよう。有力説では、日本列島は2500万年前の漸進世までは、まだアジア大陸の東の端にあった。その後、中新世に入ると大陸の端が裂けて日本列島は少しずつ大陸から離れていくのであった。そして1700万年前頃になると、この裂け目に海が入って日本海が誕生したのではないか。「島弧」としての日本列島が誕生した。このとき、日本海の開口に関係してグリーンタフ変動とよばれる広域的な火成・堆積活動が発生したのではないか。さらに新生代第三期新三期中新世(2400~500万年)の終わりにさしかかり始める頃、今から約1600~1500万年前になると、九州北部から瀬戸内海に沿って、さらに奈良・三重から愛知あたりまで、東西の帯状に、安山岩を主とする火山活動が新しくなった。そしてこの頃、瀬戸内海は既に出来ており、現在の中国地方のかなりの領域において、海が進出していたのであろう。
 さらに想像をたくましくしてみよう。現在の美作(みまさか)の北東部については、北の中国山地の山々を背にして、なだらかな丘陵地がかなり広範囲に広がっている。そこは、山と野と、それから旭川と吉井川という2本の大きな川に挟まれた平野とその周りの丘陵から成っている。この当たりからの化石の出土状況から推測すると、このあたりも、かなりのところで浅瀬が広がっていたであろうことは、想像するに難くない。
 この地にあった。1962年(昭和37年)8月4日、津山西中学校の大上博さんは、牛を連れて吉井川の河原にやってきて、その牛の身体を洗ってやったり、草を食べさせたりしながら、いつものように川の中に入って化石を探していたところ、川底に動物の骨らしき石が並んでいるのを見つける。8月22日、今度は津山南中学校の横山一也さんが、その化石から30メートルばかり下流の南岸で、前のとそっくりの化石を見つける。報せを聞いた専門家が調べたところ、およそ二千万年前に棲息していたヒゲクジラであることがわかる。1982年(昭和57年)月、今度は津山市上田邑(たのむら)の松林の山道のほとりで、津山西中学校の水杉和弥さんが、先の秩父のところで紹介した「パレオパラドキシア」という、古代カバの化石を発見したのである。
 この海が、今正式にどう呼ばれるかどうかを、私は知らない。ここでは便宜上、仮に「津山海」と呼ばせていただく。そのことがもし真実なら、今から1600~1500前頃の古代のクジラやカバたちが、その辺りを泳ぎ回っていたことになるではないか。とすると、現在のこの周囲の地理は、昔海であったところが隆起してできていることになる。大きな断層なりが見つかっていないことから、素人目ではと梅とてもとても想像できにくい。とはいえ、何度聞いてみても信じ難いことなようでも、海でしか棲息できなかった生物の化石が周辺地域に沢山見つかっていることからしても、少なくともこの一円が昔海の底であったことは疑いない。
 この「津山海」は、瀬戸内海の一部であったのだろうか。この地域において、かなり広い範囲にわたっていたことが、これまでの発掘で推定されている。津山に近いところでは、勝北の隣の奈義町(勝北町は2005年の市町村合併で津山市に編入され、奈義町は今も勝田郡内に残る)や勝央町の植月一本松の土壌からは、「ピカリア」と呼ばれる古代の巻貝の化石が見つかっている。そうであるなら、「津山海」は、津山盆地にとどまらず、美作一円はおろか、もっと広大な範囲にまで広がっていたのかもしれない(美作の歴史を知る会編「みまさかの歴史絵物語(1)」などからまとめて引用させていただきました)。
 このクジラ化石ということでは、他にも色々と見つかっている。1995年頃、現存する富岡製糸工場のそばで新生代中期中新世(およそ1597万年前~1161万年前)のハクジラの化石が発見されている(化石研究会編「化石から生命の謎を解くー恐竜から分子まで」朝日新聞出版、2011より)。このようなクジラの化石は、世界各地で見つかっている。エジプトの砂漠地帯の地層に露出するクジラは、「約3700万年前のドルトンとバシロサウルス、いずれも退化した後脚が残っているはずだが、残念ながらわかりづらくなっている」(白尾元理「地球全史の歩き方」岩波書店、2013)とのこと。
 その頃、今日本列島のあるところのどのくらいが海に浸かっていたのだろうか。この列島が形成されたのは、新生代の新第三紀(2300万~260万年前)に入ってからのことであった。地層分布は、そのほとんどが5億500万年前から6500万年前までの古い岩石からできているのだという。それまでアジア大陸の東端にあったのが地殻変動によって、大陸から離れる力が働いた結果である。これについては、色々と簡単な地図として描かれている。いずれも幾つかの発掘の事実をプロットしつつも、それらを線につなげ、その中のぼんやりと海とおぼしきところを塗ったりしている。いずれも、学術的な根拠をしっかり踏まえてというよりは、あくまで大胆かつ曖昧な推測を思いめぐらすことで描いたものなのかもしれない。ここで興味深いのは、2000万年前まで、この列島においての東日本と西日本の間に「フォッサマグナ」(ラテン語で「大きな溝」)と呼ばれる大地構造帯がまだ形成されていなくて、この地域は海であったと推定されていることだ。この2000万年前よりの新しい岩石からできているフォッサマグナと呼ばれるのは、「糸魚川ー静岡構造線と新潟県の柏崎(かしわざき)と千葉を結ぶ断層である柏崎ー千葉構造線および新発田(しばた)ー小出構造線という新層にある地域」(宇都宮聡・川崎悟司『日本の絶滅古生物図鑑』築地書館、2013)のことなのである。

(続く)

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