◎41の1の2『自然と人間の歴史・世界篇』北宋と南宋

2017-09-25 10:20:55 | Weblog
◎41の1の2『自然と人間の歴史・世界篇』北宋と南宋

 中国での北宋(ほくそう、中国読みはペイソン、960~1127)の建国は、戦いによるものではなかった。いわゆる「五大十六国」時代に属する後周(こうしゅう、中国読みでホウヂョウ、951~960)の殿前都点検(近衛軍長官)であった趙匡胤(ちょうきょういん)が、その後周最後の皇帝から禅譲(ぜんじょう)を受けて建国した。その彼が志半ばで急死した後、弟の趙匡義(ちょうこくぎ、後の太宗・趙光義)が跡を継いで中国の統一を果たした。かれの時代、民政の安定と科挙制度の充実を図るのを急務としていたが、なかなかできなかったようである。
 1004年には、北方の遼が南下したが、真宗は遼に対して毎年財貨を贈ることで和睦した。具体的には、国境の現状維持と不戦、それに宋が遼を弟とすること、さらに宋から遼(りょう、中国読みでリャオ、907~1125)に対し毎年絹200万匹、銀10万両を送ることなどが約束された。これを「?淵の盟」(せんえんのめい)という。1044年、西の西夏(せいか、中国読みでシーシア、1032~1227)が宋に対し、これも財貨を贈ることで和睦(わぼく)した。これを「慶暦の和約」(けいれきのわやく)と呼ぶ。以後、国政を整えるために、中央集権を目指すようになっていく。建国当初から、大商人・大地主の囲い込みや脱税そして役人の汚職が目立ってきていた。
 六代目の皇帝の神宗は、野心家であった。これらを鎮める策をとることで、王権を強め、もって国を安定させたいと思った。鋭気のある王安石を登用して国政改革にあたらせた。
神宗の政治顧問となり、制置三司条例司を設置して事に当たる。一連の政治は「王安石の新法」などと呼ばれ、方策は多岐に渡る。
 主なものとして、「青苗法」は、春の植え付け時期に政府が資金を農民に貸し出し、秋の収穫期に利子を付けて返還させる貸付制度。「均輸法」は、農民の生産する物資を都に運ぶ際、その地で価の安いときに買い入れ、値の高いときに売ることを約させた。「市易法」は、政府が中小商人に資金を貸し付け、物を買わせ、値が上がったときに売り出させて、中小商人を保護するとともに物価の安定をさせようとした。「募役法」とは、農民に労役免除の免役銭を納めさせ、それをもとに労役(差役)に従事するものを募集した。ある種の「失業対策事業」にもなったのではないか。「保甲法」は、その時々での傭兵をやめ、民兵による軍事力の編成を試みた。日頃はかれらを治安維持にあたらせ、農閑期には軍事教練を行う。さらに「保馬法」だが、保丁に対し、政府が馬を貸し与え、平時には農耕馬として飼育させ、戦時には軍馬として調達する仕組みであった。
 これらを概して、農民や坑戸・畦戸などの保護と、大商人・大地主の抑制を目的とした施策の二つにまとめられる。一言でなぞらえるなら、「富国強兵」というところであろうか。したがって、人民にとっては、負担が軽くなる分と、それが重く厳しくなる分との両方があったであろう。何よりも、富裕階層(士大夫)とその出身である官僚(旧法派)からの、激しい妨害を受ける。彼らには、このままでは既得権益を根こそぎとられる、との危機感も手伝ったことであろう。概して、人びとはかれの志の高いことを評価せず、ともすれば「天変畏(おそ)るるに足らず、祖宗法(のっ)とるに足らず、人言恤(うれ)うるに足らず」と非難したのは否めない。そうして王安石とそのグループが粉骨砕身するも、改革の成果はなかなか上がらない。そのうちに、改革の勢いは弱まっていくのであった。
 その頃の国境のことだ。1115年、満州から南下して来た女真族は金(きん、中国読みでジン、1115~1234)を建国していた。元々、遊牧民族が建てた。宋は金と共同で遼を攻撃する協定を結ぶ。これを「海上の盟」と呼ぶ。1121年、両国の軍は、遼を滅ぼした。その後の宋は、金と対峙する。金を牽制するため遼の残党との協力を画策しするにいたる。それで金の怒りを招き、1127、金の攻撃を受けて首都の開封が陥落した。皇帝欽宗らが北方へ拉致された、これを「靖康の変」と呼ぶ。開封を離れていた欽宗の弟趙構は、南遷して杭州で皇帝即位を宣言する。
 南宋(なんそう、中国読みはナンソン、1127~1279)は、即位した趙構は高宗となり、宋を名実ともに再興したいと考えた。はじめ岳飛(がくひ)らの活躍によって金に強固に抵抗する。だが、秦檜が宰相に就任すると主戦論を抑えて金と和平を結び、岳飛は殺される。秦檜の死後に金の4代目、海陵王が侵攻を始めたものの、金の皇族の完顔雍(烏禄)が反乱を起こして海陵王は殺される。完顔雍は金の世宗となり、宋と和平を結ぶ。同年、高宗の養子の趙慎が即位して孝宗となった。孝宗の時代、宋と金の関係は安定し、平和が訪れた。孝宗は無駄な官吏の削減・当時乱発気味であった会子(紙幣)の引き締め・荒廃した農村の救済・江南経済の活性化など様々な改革に取り組んだ。なかなかの手腕で、南宋を戦乱の痛手から復興させた。
 1189年に孝宗が退位して上皇となり、趙惇が即位して光宗となると、歯車が狂い始める。1194年に孝宗が死ぬと重臣たちによって光宗は廃位させられ、反対派に対する大量弾圧が起こった。これを「慶元の党禁」と呼ぶ。 政治の実権を握った韓?冑らは、金がタタールなどの侵入に悩まされているのを好機として、北伐の軍を起こすが失敗する。1207年になると、金の要求で韓?冑を殺して送ることでその金と和睦するにいたる。1233年には、草原に興ったモンゴル帝国が金の首都開封を陥落させ、南に逃げた金の最後の皇帝哀宗を宋軍と協力して攻め、その翌年に金は滅びた。
 1235年、宋軍は北上してかつての都洛陽・開封を回復したが、これはモンゴルとの和約違反であった。モンゴル軍との間でモンゴル・南宋戦争があり、長江流域を挟み一進一退を繰り返す。しかし、クビライが襄陽を陥落させる頃には宋は内部対立で崩壊に陥り、もはやングル軍の敵ではなかった。そして迎えた1276年、モンゴル軍に臨安を占領され、宋は滅亡した。その後、一部の皇族・官僚・軍人らが南に下って抵抗を続けるも、1279年に広州で元軍に攻撃され、宋は完全に滅びた。

(続く)

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