(295)『138億年の日本史』教科書検定裁判

2017-08-09 21:04:34 | Weblog
(295)『138億年の日本史』教科書検定裁判

 1965年(昭和40)6月、第一次家永訴訟(いえながそしょう)の提訴があった。この訴訟は、歴史学者の家永三郎教授(1913~2002)が書いた高等学校日本史教科書(三省堂)が文部省による検定を受けた時の事情に鑑み、本人によって起こされた。検定制度に向けた批判を骨子とする。曰く、「教科書検定制度のような制度を通し、教育内容を国家機関によって一元的に統制することは憲法、教育基本法に反する。教科書検定は憲法違反である」とある。
 原告側主張の組立は、次のとおりであった。「第一に、文部省の教科書検定制度が日本国憲法第13条(個人の尊重)、21条(表現の自由)、23条(学問の自由)、26条(教育を受ける権利)、教育基本法10條(教育行政)に違反する。第二に、教科書検定の際、政府行政が行なう改善意見、修正意見と呼ばれる行政指導は、行政の裁量権の範囲を逸脱して不当行為にあたる」。
 家永訴訟はこの二点の主張を柱にし、これを賠償請求訴訟を起こす。これは、文部省の検閲制を問題にしていたが、家永教授が記述し文部省に訂正要請された歴史事項の内容にも関心が寄せられた。かれは、南京事件や慰安婦問題を記述に新規に盛り込もうとしたことで文部省と対立、また、文部省が旧日本軍による「侵略」を「進出」と書き換えるように教科書会社に求めたことが発覚した。
 1967年6月、家永氏は、1966年の検定における「新日本史」の不合格処分取消を求める行政訴訟に踏み切った。これが第二次訴訟の始まりとなる。
 そして迎えた1970年7月、第二次訴訟の第一審として東京地裁判決(杉本判決)が出された。判決は、国民の教育権論を展開して、教科書の記述内容の当否に及ぶ検定は教育基本法10条に違反するとした。また、教科書検定は憲法21条2項が禁止する検閲に当たるとし、処分取消請求を認容した。原告・家永氏側の全面勝訴となった。7月24日、この判決を不満とする被告側の国が控訴する。
なお、家永の執筆による『新日本史』が1973年4月10日付けで、高等学校社会科用(日本史)として文部省検定済とされている。問題であった箇所は、かなりの修正が施されていると推定される。なお、この検定以後にも1980年3月31日付けで改訂検定済が伝えられる。
 1974年7月、第一次訴訟の第一審として東京地裁判決(高津判決)が出された。判決は次のように述べた。
 「現行検定制度は、憲法26条違反には当らない。教科書検定は表現の自由に対する公共の福祉による制限であり受忍すべきものであり、憲法21条が禁じる検閲に当たらない。現行検定制度そのものは違憲とまでは言えないが、その運用を誤り、審査が教科書の思想内容の審査、学術的研究の成果としての学説の審査、史観、歴史的事象の評価などに及ぶときは違法となる。
 教育課程その他の教育内容については一定の限度を越えて権力が介入をすることは不当な支配となる。検定は、客観的に明らかな誤りやその他の技術的事項にとどめるべきである。また教師は、子どもに考える力、知る力、想像する力をつけさせるものであるので教師に学問の自由と教育の自由が保障されなければならない。
 検定意見の一部に裁量権濫用があるとして国側に10万円の賠償命ずる」。
 この判決は、家永氏の請求を一部認容した上で、教科書検定合憲とするものであった。7月26日、原告側が控訴する。
 1975年12月、第二次家永訴訟第二審、東京高裁判決(畔上判決)が下された。この判決であるが、文部大臣の検定は、「一貫性、安定性を欠くまま気ままに出た行政行為」とし違法であり、行政としての一貫性を欠くという理由で、国の控訴を棄却した。原告・家永氏側のの勝訴となった。杉本判決の論旨を踏襲していた。12月30日、被告側が上告する。
 1982年4月、第二次訴訟の最終審として最高裁判決(丹野判決)が出された。判決は、処分当時の学習指導要領がすでに改訂されているから、原告に処分取消を請求する訴えの利益があるか否かが問題になるとして、破棄差戻し判決を下した。
 1984年1月、家永は、1982年の教科書検定を不服として国家賠償請求訴訟を提訴した。これが第三次訴訟の始まりとなった。
 1986年3月、第一次訴訟の第二審として東京高裁判決(鈴木判決)が出された。判決は、国の主張を全面的に採用し、また裁量権濫用もないとして請求を全部棄却した。原告・家永氏の全面敗訴となった。同年6月3月20日には、原告側が控訴する。
 1982年6月、第二次訴訟の差戻審で、東京高裁判決が出された。この判決は、学習指導要領の改訂により、原告は処分取消を請求する利益を失ったとして、第一審判決を破棄、訴えを却下した。
 1989年10月、第三次訴訟の第一審として東京地裁判決(加藤判決)が出された。この判決は、検定制度自体は合憲としながらも、「教育内容に対する国家的介入はできるだけ抑制的であること」と位置づけ、検定における裁量権の逸脱を一部認め、草莽隊の記述に関する検定を違法とし、国側に10万円の賠償を命令した。これを不服とする原告側が控訴する。
 1993年3月、第一次家永訴訟の最終審として最高裁判決(可部判決)が出された。この判決では、教科書検定制度を「合憲、合法」とした第二審の鈴木判決をほぼ踏襲し、「看過し難い過誤」はないとして上告を棄却した。原告・家永氏側の全面敗訴となった。 1993年10月、第三次訴訟の第二審として東京高裁判決(川上判決)が出された。この判決は、検定制度自体は合憲としながらも検定における裁量権の逸脱を一部認め、草莽隊に加え南京大虐殺、「軍の婦女暴行」の記述に関する検定も違法とし、国側に30万円の賠償を命令した。これを不満とする原告側が控訴する。
 1997年8月、第三次訴訟の最終審として最高裁第三小法廷で最高裁判決(大野判決)が出された。この判決は、検定制度自体は合憲としながらも検定における裁量権の逸脱を一部認めるにいたる。草莽隊他に加え731部隊、「南京戦における婦女暴行」の記述に関する検定も違法とし、国側に40万円の賠償を命令した。
 判決はまた、これまでの判決同様検定制度を「合憲」とし、次のように述べた。
 「一般図書としての発行を何ら妨げるものではなく、発表禁止目的や発表前の審査などの特質がないから、検閲にあたらない。」
 この教科書検定制度合憲判決により、原告側の実質的敗訴が確定した。
 なお、家永本人の思想的な源泉は、元々は自由主義的雰囲気ながら穏健かつ多少に復古的なところにあったようで、戦前そして戦後しばらくまでは天皇制擁護なり、いわゆる左翼思想とは一線をおく向きがあった。それが1950年代に入って積極的自由主義になって、独自の思想境地を開いていくようになるきっかけは何にあったのだろうか、いまなおつまびらかではない。ともあれ、彼がこの教科書裁判に立ち上がった最大の契機としては、第二次世界大戦での日本の悲惨さ、戦争で多くの尊い命が失われたのに接し、日本は二度とこのような戦争をしてはならないとの決意なり世界観であったのではないだろうか。それゆえ、家永の主著「太平洋戦争」は日本の歴史学者の良心の発露ともなった。一見するところ静かなる人、しかし、そのたたずまいの中についに反権力の闘志を込めるまでに成長、進化を遂げた後半生であったのではないか。

(続く)

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