(295)『自然と人間の歴史・日本篇』産油国、石油メジャーと日本

2017-08-09 21:03:05 | Weblog
(295)『自然と人間の歴史・日本篇』産油国、石油メジャーと日本

 1960年代に入ると、日本の石油輸入が格段に増えていきます。これにともなって、日本は否応なしに、石油を巡る国際的な動きにさらされるようになっていきますが、丸尾(筆者)は、こう振り返っています。
 「まずその前史から簡単にひもといてみましょう。その前史とは、産油国の「資源立国」への目覚めと相互間の協力推進により、彼らが国際石油市場で力を蓄えていったことにあります。その動きに大きな役割を果たしたのは、アラブ産油国ばかりではありません。特に、ベネズエラでの石油メジャーズとの石油利権をめぐるたたかいでは、ベネズエラにとって多少の成果がありました。1945年に石油相に就任したペレス・アルフォンソにより、石油利益について両者による折半方式が初めて国際舞台で提唱され、1948年から実施されることになったのです。この方式は、その後次第に中東の産油国にも導入されていきました。
 アラブ諸国としても、1945年のアラブ連盟(連合)の結成以来、産油国との協力関係の構築を臨んでいましたから、1952年にはアラブ連盟内に石油専門委員会を設けて、産油国による資源ナショナリズムの後押し役を担うことになります。
 こうした産油国側の結束の動きはありましたが、1950年代後半になっても、独立系石油会社とソ連産石油の流入などにより、石油の国際市場は供給過剰ぎみに推移していたことから、彼らの主張はメジャー側になかなか通じないままでした。おりしも、メジャー達は1959年2月を期して、中東産原油の公示価格を1バーレル当たり18セント引き下げる挙(きょ)に出ました。この価格引き下げはベネズエラなどの非アラブ系産油国にも影響が及んでいきました。
 当時、産油国の受け取る利益は公示価格をもとに計算されていましたから、関係国の財政は、自分たちはこのままでは危ない、との認識が広まっていきました。このような事態に産油国側として対処するために、二つの動きが起きました。
 そのひとつは、1959年4月、アラブ連盟経済委員会の主催によるアラブ連盟第一回石油会議が開催されたことでした。この会議には、イランとベネズエラもオブザーバー参加していました。会議の決議において、彼ら産油国側はメジャー側に対し、公示価格の引き下げについて産油国政府と協議するよう勧告を行いました。
 しかしながら、彼我の力関係はまだ大きく変わってなく、メジャー側は産油国側の要求を無視する形で、翌1960年8月には、1バーレル当たり10セントの公示価格再引き下げを一方的に通告したのです。
 この再値下げの一方的決定に対し、産油国側の資源ナショナリズムはいやが上にも燃え上がりました。それから約1ヶ月後の1960年9月にOPEC(石油輸出国機構)が結成されますが、その精神的支柱となったペレス・アルフォンソの思想とは、自国だけでなく、産油国全体が結束してこそおのおのの石油資源維持策を進めていくことができる、というものでした。ここに、双方の石油を巡る争いは新たな段階へと歩を進めます。
 参考までに、ここで1945年の3月22日結成時点でのアラブ連盟(本部はカイロ)の加盟国(「原加盟国」という。)は、エジプト、サウジアラビア、ヨルダン、イラク、イラン、シリア、レバノン、イエメンの7か国でした。その後1953年にリビアが、1956年にスーダンが、1958年にモロッコとチュニジアが、1961年にクウェートが、1962年にアルジェリアが、1971年にはアラブ首長国連邦(UAE)、バーレーン、カタール及びオマーンが、1973年にモーリタリアが、1974年にソマリアが、1976年には「地域自治組織」としてのパレスチナが、1977年にはジプチ、そして1993年にはアフリカ大陸から新たにコモロがそれぞれ加わり、2012年2月25日現在の加盟国は22(21か国と1地域)となっています。
 また、OPECの1960年9月14日の結成時点での(「原加盟国」という。)は、イラン、イラク、サウジアラビア、クウェート、そしてベネズエラの5か国でした。その後1961年にカタールが、1962年にリビア、インドネシア(石油純輸入国になったことを理由に2008年末に脱退)が、1967年にアブダビが、1968年にはアラブ首長国連邦(UAE)が、1969年にアルジェリアが、1971年にはナイジェリア、1973年にエクアドル(1992年に「加盟国□の停止」を受けて脱退した。)が、1975年にガボン(1995年に脱退)が、さらに2007年1月1日付けでアンゴラが新たに加わったことにより、2012年2月25日現在の加盟国は12か国となっています。
 1960年9月14日に開催された第1回のOPEC総会(会場はバグダット、本部はオーストリアのウィーン)は、石油の公示価格をメジャーによる引き下げ以前の水準に戻すよう要求を突きつけることでの決議を採択しました。しかしながら、当時の石油の需給がゆるみつつあったことや、発足時のOPEC側の生産規制の足並みをいっぺんに整えることの困難であることなども加わり、彼らの要求実現はかないませんでした。
 その後、1962年6月、OPEC総会は新たな要求をとりまとめました。それは、従来、メジャーズ等の石油会社から産油国政府に支払われる利権料が、産油国に納付する税額から差し引かれていたのを改め、以降は、その利権料を税額から差し引かない形にすることが決議されたのでした。この決議が採択されて以降のメジャーズとの粘り強い交渉の結果、1964年にはメジャー側はOPECの要求を受け入れることになりました。
 さらにその後、1965年と1966年の二度にわたり、産油国側としての生産計画を策定するとともに、彼らにとって適正かつ有利な水準で公定価格を決定しようとの試みはあったものの、まだ当時は石油需給が引き締まっておらず、そのため生産規制による価格引き上げよりも、自らの石油生産を増やすことで石油収入を増加を図ることの方が現実的と判断していたため、その試みは結局実を結ぶことはありませんでした。
 次の機会は政治がらみで、1967年6月に発生した第三次中東戦争のときに訪れました。このとき、石油を持つアラブ諸国はバグダッドにおいて外相会議を開いて、イスラエル側に圧力をかけるため、その後ろにいる先進国メジャーに対し石油供給の制限策をとろうしたものの、イランとベネズエラが加わっていなかっこと等の理由から、これも失敗に終わりました。
 その翌年、サウジアラビア、クウェート、そしてリビアの三国は、互いに結束を固めてメジャーズに立ち向かうため、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)を結成するに至りました。

(続く)

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