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◎九八の二『138億年の日本史』キリスト教の伝来

2017-06-15 09:12:29 | Weblog
九八の二『138億年の日本史』キリスト教の伝来

 この時期、外からの宗教が伝来したのは、キリスト教をもって嚆矢(こうし)とする。1543年(天文12年)、ポルトガル人を乗せた中国船が種子島に漂着した。そもそも、ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマは、国王の命令で1502年に2回目のインド航路航海を行う。この時は最初の旅(1497年~)と異なり、新しい航路を開拓するためというよりは、20隻の船団に兵員を載せ、カリカットに砲撃を加えて上陸する。コーチンに要塞を築いて現地でポルトガル商船の利便を図る。これこそ、当時新しい世界に覇を競い合っていたスペインやポルトガルの硬軟両様のやり方であった。1522年にはポルトガルに帰国してアントウェルペン港に入港し、大量の胡椒をもたらした。1524年に彼はインド総督になるのだが、そのまま故国に戻ることなく当地で死ぬ。インド洋沿岸やスマトラ島、それからマレー半島にはポルトガルによって開拓された基地が設けてあって、彼らが日本にやってくるには、そこを通って、南シナ海に出、それからは北上して東シナ海を通ってきたものと考えられる(参考として、西岡秀雄「地理学Ⅰ」慶應義塾大学通信教育教材、1962の68ページの図・インド洋におけるオランダ船の航路)。
 さて、ポルトガルの船が到着した種子島では、彼らをどのようにして迎えたのだろうか。当時この島の主であった種子島時堯(たねがとまときたか、1528~1579、種子島氏第14代当主)は、日本に最初に火縄銃を導入し、国産化に導いた人物として知られる。ポルトガル人から鉄砲を入手した彼は、なかなかの知恵者であったらしい。彼等からその操作法を学んで使うばかりでなく、その製法を家臣に学ばせた。こうして鉄砲はやがて堺商人らの手により全国の武士に普及していく。それでは、当時のポルトガル商船の来港の一番の狙いはどこにあったのだろうか。それが想定できそうな史料として、来日していたイエズス会の宣教師ルイス・フロイスの日本滞在記録がある。31歳の彼は、1563年(永禄6年)に肥前(ひぜん)の横瀬浦(よこせうら)にたどり着く。その後は、平戸(ひらど)、口之津(くちのつ)などを転々としながら、布教に務める。その2年後には京都に入る。京都で布教しているうち、庇護者の足利義輝(あしかがよしてる)が殺害されるなどがあって堺に退き、そこで布教活動を続ける。そのフロイスが後年記した『日本史』に、こんな下りがある。
 「薩摩軍が豊後で捕虜にした人々の一部は、肥後の国に連行されて売却された。その年、肥後の住民はひどい飢饉と労苦に悩まされ、己が身を養うことすらおぼつかない状態になったから、買い取った連中まで養えるわけがなく、彼らはまるで家畜のように高来(タカク:島原半島)に連れて行かれた。かくて三会(ミエ)や島原の地では、時に四十名が一まとめにされて売られていた。肥後の住民はこれらのよそ者から免れようと、豊後の婦人や男女の子供たちを、二束三文で売却した。売られた人々の数はおびただしかった。」(『完訳フロイス日本史8』中公文庫、268ページで、1588年の記述と見られる)
 また、翌1589年の出来事とみられる、次の記述がある。
 「豊後の国の全領民は次のように三分された。その第一集団は、戦争のために死亡し、第二集団は、敵の捕虜となって薩摩や肥後に連行されたのち、羊の群れのように市場を廻り歩かされたあげく売られていった。彼らの多くは、二束三文の安価で売却された。第三の集団は、疾病や飢餓のために極度の貧困に陥って人間の容貌を備えていないほどであった。彼らは互いに殺し略奪し合っていた。」(同書314ページ)
 一見にして奴隷貿易ではないかとも読める一文である。しかし、ポルトガルという国の世間にはばかられるのか、そのことの明示はしていない。ともあれ、ポルトガルとの交易に伴い、当時の日本に様々な品が持ち込まれた。そのことは、2016年6月29日付けの西日本新聞に「ポルトガル伝来品を紹介・オランダ商館 少年用上着、火縄銃・・・・・(長崎県)」の記事が載っていることからも窺える。
 「16世紀以降、ポルトガルから平戸に伝わった品々など約20点を紹介する企画展「西洋との出会い~ポルトガル貿易と南蛮文化」(ポルトガル大使館後援)が、平戸市大久保町の平戸(ひらど)オランダ商館で開かれている。8月28日まで。
 中国との交流が盛んだった平戸は、中国明代の海商で倭寇の頭目だった王直の手引きで1550年にポルトガル船が入港したことをきっかけに西洋貿易の窓口として繁栄。ポルトガル船の入港を知った宣教師フランシスコ・ザビエルも3度平戸を訪れた。1641年にオランダ商館が長崎に移るまでの間、西洋諸国の貿易船が相次いで訪れ、平戸は「西の都」と呼ばれるほどに繁栄した。
 企画展では、16世紀後半~17世紀前半の欧州様式の特徴を持つ「松浦家伝来少年用上着」やタイル、火縄銃、小型艦載砲などの武器、豊臣秀吉の「バテレン追放令」の定書(さだめがき)などの松浦史料博物館所蔵品を展示。香辛料15種類のにおいをかぐ体験コーナーもある。」
 さて、鉄砲伝来から6年後の1549年(天文18年)、薩摩のヤジローに案内されたイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸する。ザビエルは、島津氏15代当主の貴久にキリスト教の布教を求めた。島津は当初こそ交易の利益を見込み、ザビエルらに鹿児島におけるキリスト教布教を許すのであるが、彼らが都(京都)などへの布教を志すようになると、態度を変える。1567年(永禄10年)になると、ポルトガル船が長崎に来航する。1582年(天正10年)から1590年(天正18年)にかけて、九州の国衆である大友、大村、有馬の三氏による少年使節が渡欧する。1584年(天正12年)になると、当時ポルトガルと覇権を争っていたスペイン船が平戸に来航する。
 やがて安土桃山時代に入っていく。列島中央の覇者となりつつあった織田信長が「天下布武」(てんかふぶ)を唱えると、拡大する領地の中で、治世に協力的態度をとる者に対しては、信教の自由もある程度認める政策をとっていく。そうした中で彼は、特にキリスト教に対しては前向きとも見られそうな態度をとっていた。
 1568年(永禄10年)、京都二条城の建築現場で、織田信長が前述のルイス・フロイスと二度目の会見をした時の模様を、フロイスが書きとめた。信長は、足利義明(あしかがよしあき)を擁して京都に上っていた。
 「司祭が遠くから(信長に)敬意を表した後、彼は司祭を呼び、橋上の板に腰をかけ、陽があたるから(帽子を)かぶるようにと言った。そこで彼は二時間、ゆったりした気分で留まって彼と語らった。・・・・・
 そこの全群衆は、信長がいとも真剣に聞き訊ね、伴天連が答弁している光景を固唾をのんで見守っていた。そこには多数の人々がかの建築を見るために訪れており、彼らの中には近隣のおびただしい仏僧たちも見受けられた。とりわけ数名は、どのような会話がなされたか傾聴していたが、信長は尋常ならぬ(大声)の持ち主であったから、声を高め、手で仏僧の方を指さし、憤激して言った。「あそこにいる欺瞞者どもは、汝ら(伴天連たち)のごとき者ではない。彼らは民衆を欺き、己れを偽り、虚言を好み、傲慢で僭越のほどはなはだしいものがある。予はすでに幾度もかれらをすべて殺害し殲滅しようと思っていたが、人民に動揺を与えないため、また彼ら(人民)に同情していればこそ、予は煩わせはするが、彼らを放任しているのである」と。」(ルイス・フロイス著・松田毅一・川崎桃太訳『フロイス日本史』四(五畿内編Ⅱ)、中央公論社、1978)
 1582年(天正10年)旧暦6月に没発した本能寺の変での信長の死により、その後を継いだ豊臣秀吉は、はじめこそ伴天連諸国との貿易で利益が見込まれると見てか、キリスト教の布教に比較的寛容な態度で臨んでいた。それでも、1587年(天正15年)旧暦6月18日付けの『吉利支丹に関する覚書』において、「伴天連門徒」に対し、こんな命令を出すに至る。
 「一、伴天連門徒之儀者、共著之心次第たるべき事。
二、国郡在所を御扶持ニ被遣侯を、其知行中之寺請百性(姓)以下を、心さしも無之処、押付而給人伴天連門徒ニ可成由申、理不尽ニ成侯段、曲事候事。
三、其国郡知行之儀、給人ニ被下僕事ハ、当時之儀ニ候、給人は替り候といへとも、百性(姓)ハ不替者ニ候条、理不尽之儀、何かに付て於有之者、給人を曲事被仰出侯間、可成其意侯事。
四、弐百町二三千貫より上之者、伴天連ニ成侯おゐてハ、奉得、公儀御意次第ニなり可申事。
五、之知行より下を取候老ハ、八宗九宗之義侠間、其主l人宛ハ心次第可成候事。
六、伴天連門徒之儀ハ、一向宗よりも外ニ申合侯条、被聞召侯、一向宗其国郡ニ寺内を立、給人へ年貢を不成、 加賀国一国門徒ニ成侯而、国主之富樫を追出、一向宗之坊主もとへ令知行、共上越前迄取侯而、天下之さわりニ成侯義、無其隠之事。
七、本願寺門徒、其坊主天満に寺を立させ、錐免置侯、寺内ニ如前々ニハ、不被仰付候事。
八、国郡又は在所を持侯大名、其家中之者共、伴天連門徒ニ押付成候事ハ、本願寺門徒之寺内空止しよりも太不可然義侠問、天下之さわりニ可成侯粂、其分別無之老ハ 可被加御成敗侯事。
九、伴天連門徒心さし次第ニ下々成侯義ハ、八宗九宗之義侯間、不苦辛。
十、大唐、南蛮、高麗江日本仁(人)を売遣侯事曲事、付(つけたり)、日本ニおゐて人の売買停止(ちょうじ)の事。
十一、牛馬ヲ売買、ころし食事、是又可為曲事(くせごと)事。
天正十五年六月十八日、朱印」
 これの第10条と第11条に、それぞれ「人の売り買い」と「牛馬食」の禁止が記される。この二つの条は、秀吉が九州征伐がなってから現地に出向いて発せられた。国内向けというよりは、コエリョを初めとするポルトガル人に対するものだと考えられる。その翌日の同1587年(天正15年)旧暦6月19日付けで出された『定書』こと、いわゆる『吉利支丹伴天連追放令』は、こうある。
 「日本ハ神國たる處、きりしたん國より邪法を授候儀、太以不可然候事。
其國郡之者を近附、門徒になし、神社佛閣を打破らせ、前代未聞候。國郡在所知行等給人に被下候儀者、當座之事候。天下よりの御法度を相守諸事可得其意處、下々として猥義曲事事。
 伴天連其智恵之法を以、心さし次第二檀那を持候と被思召候ヘバ、如右日域之佛法を相破事前事候條、伴天連儀日本之地ニハおかせられ間敷候間、今日より廿日之間二用意仕可歸國候。其中に下々伴天連儀に不謂族申懸もの在之ハ、曲事たるへき事。
 黑船之儀ハ商買之事候間、各別に候之條、年月を經諸事賣買いたすへき事。
 自今以後佛法のさまたけを不成輩ハ、商人之儀ハ不及申、いつれにてもきりしたん國より往還くるしからす候條、可成其意事。
已上、天正十五年六月十九日、朱印」
こちらは、18日の文書へのポルトガル側の返答、及び国内大名の反応を踏まえ発布された。秀吉が気がついたのは、国の主権が脅かされる事態もありうるということであったのではないか。そこでみせしめのため国内大名硬派の高山右近の所領を没収するとともに、イエズス会には国外退去を命じるものにエスカレートしている。家臣のキリシタン大名の高山右近は、秀吉の心変わりのとばっちりを受けた格好だが、彼はきっぱりと信仰を捨てがたいとしたのであった。
 その秀吉は、1590年(天正18年)の全国統一を境にして、布教の禁止と、信徒弾圧へと傾き始める。キリスト教の元では、自らの権威が脅かされるとも考えたのかもしれない。そうはいっても、秀吉は外国貿易で得られる富に関心があって、1592年(文禄元年)に朱印船制度を定める。秀吉の晩年は、自らの独裁的地位が脅かされるのではないかという猜疑心に取り付かれていた。そのためであろうか、1594年(文禄3年)には、キリスト教徒を長崎で処刑するに至る。1596年(慶長元年)、スペイン船のサン・フェリペ号が土佐に漂着する。その同じ年には、長崎において「二十六聖人の殉教」事件が起こる。やがて秀吉の時代が終わり、1599年(慶長4年)関ヶ原の戦いで徳川家康の率いる東軍が勝ち、徳川の世となる。家康の死後、江戸幕府は急速にキリシタン弾圧へと傾いていく。鎖国の方針も出され、1639年頃には鎖国体制が固まり、オランダ貿易などの例外を除いて、我が国は門戸を閉ざしていくのであった。

(続く)

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