(369)『自然と人間の歴史・日本篇』1990年代の文化(彫刻、絵画、書、版画、マンガ、写真1)

2017-08-10 23:04:09 | Weblog
(369)『自然と人間の歴史・日本篇』1990年代の文化(彫刻、絵画、書、版画、マンガ、写真1)

 東山魁夷(ひがしやまかいい、1908~1999)は、横浜市に生まれた。1926年(大正16年)、東京美術学校日本画科に入学する。1934~35年には、ヨーロッパ各地を巡遊、ベルリン大学哲学部美術史科に通っていた。
 風景画の巨匠とされる画家である。大どころでは、唐招提寺の障壁画が有名である。そればかりではない。特に多いのが、風景画である。北欧やドイツに赴いて、涼しげな、時には冷たさを覚えるような森や湖、町や都市などを素描したり、中国へ旅して人や馬、山間の絶景なども手掛けている。きめ細かな色彩のものもあるが、多くはもやっとした、おぼろな情景として描いてある。その極まりが、「道」(1950年作)であって、これは解釈が難しい絵だと思う。この絵を描くに至った理由について、東山は、後年こう記した。
 「これは青森県八戸(はちのへ)の種差(たねさし)海岸にある牧場での取材である。私が八戸ではじめてこの道を写生したのは、その時から十数年も前のことで灯台や放牧の馬の見える景色をしてであった。(中略)。「やはり来てよかった」と私は声を出して言った。十数年前の道は荒れてはいるが、昔のままの姿を見せ、向こうの丘へと続いていた。
 夏の朝早い空気の中に、静かに息づくような画面にしたいと思った。この作品の象徴する世界は私にとって遍歴の果てでもあり、また、新しく始まる道でもあった。それは、絶望と希望を織り交ぜてはるかに続く一筋の道であった。」(「一九六五(昭和40)年六月期」より抜粋)と振り返っている。
 1970年代年代からは、ライフワークなのであろうか、唐招提寺の障壁画の製作に多くの時間を費やすようになる。1990年に記したものに、こうある。
 「続いて最も重要な和上象を安置するお厨子の絵を、その翌年(昭和五十六年)に描き終えました。三つの部屋の中国山水は水墨で描き、この厨子絵は濃彩で仕上げました。和上が最初に日本の土を踏まれた鹿児島県秋目浦(あきめのうら)に想いを馳せて描いたのです。」(「一九九〇(平成二)年三月記」)
 さらにいうと、彼の特徴は、社会的事象についてものをいう画家としても珍しい。そもそもの創作の動機について、作者は「私が常に作品化のモティーフにしたり、随筆に書いているのは、清澄(せいちょう)な自然と素朴な人間性に触れての感動が主である」とした暫く後に、こう記してある。 
 「なぜなら、現代は文明の急速度の進展が自然と人間、人間と人間のバランスを崩し、地上の全存在の生存の意義と尊さを見失う危険性が、高まってきたことを感じるからである。平衡感覚を取り戻すことが必要であるのは言う迄もない。清澄な前途、素朴な人間性を大切にすることは、人間のデモーニッシュな暴走を制御する力の一つではないだろうか。人はもっと謙虚に自然を、風景を見つめるべきである。それには旅に出て大自然に接することも必要であり、異なった風土での人々の生活を興味深く眺めるのも良いが、私たちの住んでいる近くに、たとえば、庭の一本の木、一枚の葉でも心を籠(かご)めて眺めれば、根源的な生の意義を感じ取る場合があると想われる。」(一九八〇(昭和55)年四月記)

(続く)

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