『(27)』『岡山の今昔』江戸時代の三国(17~18世紀の藩政改革)

2016-12-20 20:04:35 | Weblog
『(27)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』江戸時代の三国(17~18世紀の藩政改革)

 ところで、1764年(明和元年)、1697年の森氏改易後に幕府天領(ばくふてんりょう)となっていた勝山の地に、三浦明次(みうらあきつぐ)の三浦氏が三河国(みかわのくに)西尾藩からこの地に転封(国替え)して立藩した。
 この間に、備前藩では、やや異なった展開をたどっていた。1672年(寛文12年)、才人で知られる池田光政が隠居すると、嫡子綱政が二代藩主になった。彼は父と違って目立ったところはなく、凡庸な人であったと伝えられる。ところが、これが幸いしたのが、家老の日置猪右右衛門や、郡代の服部図書と津田永忠、学校奉行の市浦毅斎といった有能な家臣に多くを任せた。特に、津田永忠らが中心となって手掛けた新田では、米と麦の伝統的産物だけでなく、木綿や藺草(いぐさ)の栽培を行うようになる。
 そうした逸材達による藩政への参画、藩主の補佐の御陰で、藩の財政運営、新田開発、百間川の整備、そして後楽園(当時は「御茶屋敷」とか「後園」)の造営など、治世の実を上げたことになっている(「柴田一「岡山の歴史」岡山文庫57、1974」など)。
 1714年(正徳4年)にその綱政が死ぬと継政がこのあとを継ぎ、さらに宗政へと受け継がれる。この間、藩内では引き続き、温暖な山陽道の気候にも助けられてか、比較的穏やかな治世が続く。それを物語るのが、次の珍しい文章といえる。なぜなら、1729年(享保14年)といえば、諸国、とりわけ隣国では百姓一揆が頻発していた。そのとき、岡山藩でも、そうした一揆が起きたらどうしようか、どう鎮めるべきかを、郡代の加世八兵衛、長谷川九郎太に諮問した、といわれる。その二人が差し出した答申の内容がふるっている。
 「近年御近国の御大名様方は、藩の財政が収支相つぐわぬところから、御知行所の百姓ども騒動仕り候、(中略)総じて御無理なる義を下方へ仰付けられ候ては、兼々申しあげ候通り百姓どもうけつけ申さず候、御領内百姓の儀は何の御気遣いなることは御座なく候。」(池田家文書法令集)」
 さらに、治世が継政の孫、治政の代になってからも、郡代が大庄屋に申し渡した、いわゆる「お達し」に、こう書いてあったという。
 「この節、所々他領がた百姓騒しく、右につき御郡代より各方へ仰せ聞かされ候は、御領分の儀式は兼て厳重に仰せつけられ置き候ゆえ、申し出し候儀もこれ無きことには候えども、大庄屋、名主ども兼々御取締り念入れ取り向け宜しき所より、何の不埒も相聞き申さず、御満足に思召し候、此後も随分御締り念入れ、名主どもより下方へも得と相移り申すべき旨仰せ渡され候。」(岡山大学「荻野家文書ー諸御用留帳」)。
 当時の岡山藩内の様子がこれらにあるような静謐さを保っていたとすれば、それは藩当局による農民への封建的搾取の体制が滞りなく行われていることを意味するのであって、治世を行う側から見ると「概ね結構」ということになるのであろう。そのことを下の方から支えていたものとしては、1704年(宝永元年)に、「在方下役人」がおかれたり、1707年(宝永4年)に大庄屋制が復活して、藩の農民支配が強められていたことも見逃すべきでない。その備前藩の農村においては、階層分化が進んでいた。谷口澄夫氏による引用に、こうある。
 「和気郡北方村出身の学舎である武元君立(たけもとくんりつ、1770~1820)は、その著『勧農策』のなかで、寛政前後において農民の階層分化が行われた必然性をとらえて、その実情をつぎのようにのべている。
 すなわち、「いまはとかく商人の世の中であり、田地の年貢が高くて百姓は耕作のみでは生活してゆくことができない」と前置きして、「百姓のなかには生活に困って借銀をするものが多くなっているがこれほどあわれなものはない。もともと不足がちであるから借銀をするのであるが、そのような者が、一割半から二割の利息をつけて返済することができるだあろうか。だからどうしても、所持している家財・山林または年貢の安い田畑などは、この借銀の元利としてみんな銀主へ取りあげられるようになる。したがって豪富の者の手には、年貢が安くて加徳のある田畑が集中するようになるわけである。しかしこの豪富の者というのは、十カ村に一人か二人ぐらいなものである。それについで、借銀もなく一人前に暮らしている百姓は、百家の村に十人以下である。そこで、残りの九十人はみな困窮している小百姓ということになる。この小百姓は弱体で田地に肥(こや)しをほどこすこともほとんどできず、牛を借用して耕すようなことも思うままにはできないので、地味はやせおとろえて取実(とりみ)もすくなく、有米をのこらずはたき出しても年貢や高掛りの支払い足りないので、またその不足分を借銀が年年累増して首がまわらなくなるのである」と。」(谷口澄夫「備前藩」:児玉幸多・北島正元編「物語藩史6」人物往来社、1965に所収)
 そればかりではない。同藩においては、18世紀に入った1705年(宝永2年)、「ざるふり商人」に販売を公認する31品目をきめた。1707年(宝永4年)頃の岡山城下の賑わいを示すものとして、城下の町人総数はおよそ3万人であった、と言われている。
 備中と隣あわせの備中の南部においても、この時期、農業の多角化と、それに触発されての商業の発達があったことが知られる。柴田一氏の論考には、こう記されている。
 「備中南部でも、水谷勝隆・勝宗のころ開発された新田地帯を中心に木綿・藺草の栽培が盛んになった。とくに浅口郡玉島湊は、背後の新田地帯の木綿(繰綿・綿実)を大漁に扱う著名な集散地であり、また、都宇郡連島村は多くの藺草問屋・廻船問屋があって、集荷し藺草を大坂に運んだ。自給的な農業から商業的な農業に脱皮すると、百姓たちは肥料問屋・仲買から、干鰯(ほしか)・油粕(あぶらかす)を買い入れ、また、鋤、鍬、鎌のほか、役牛・すきを購入し、唐箕の・唐臼・千歯扱ぎ(せんばこぎ)などをもとめ、農業収益を高めていった。」(柴田一氏の論考には「岡山の歴史」(岡山文庫、1974)。

(続く)

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