(300)『自然と人間の歴史・日本篇』「ニクソン・ショック」の衝撃

2017-08-09 21:19:30 | Weblog
(300)『自然と人間の歴史・日本篇』「ニクソン・ショック」の衝撃
 
 アメリカの経済政策が一つの曲がり角に来たことを告げたのが、いわゆる「ニクソン・ショック」であり、丸尾(筆者)はこう書いた。
 「いざなぎ景気が終わる70年8月頃から71年夏にかけてには、世界経済からの大きな変化が起こりました。まずは国際的な枠組みで太陽であり続けたアメリカの停滞が現実のものとなります。アメリカは多額の軍事援助とベトナム戦争(60-74年)など地域紛争への介入を梃子に国際収支の上では赤字となる資本輸出を進めてきました。
 しかし、アメリカ資本の多国籍化が進むにつれ、それを支援する本国のポンプが年来の経費の重圧で勢いが鈍ってきたのです。また、国際市場での日本や西ドイツによる圧迫が現実化して72年には初めて輸入額が輸出額を上回りました。
 この反映で国際金融市場におけるドルの信任も68年のゴ-ルドラッシュを境として揺らいできます。アメリカはこの国際収支の赤字の処理を、一部は自国保有の金で、その大部分をドル決済で埋め合わせてきました。それでも金保有量がますます減少し、他の先進資本主義国のドル保有高が増大していきました。
 いまその推移を振り返ると、1950年は金が228億2千万ドルであったのに対し対外短期債務は86億4千5百万ドルで、対外短期債務に対する金準備の比率は2.64。
1955年は金が217億5千3百万ドルであったのに対し対外短期債務は118億9千5百万ドルで、対外短期債務に対する金準備の比率は1.83。1960年は金が178億4百万ドルであったのに対し対外短期債務は187億百万ドルで、対外短期債務に対する金準備の比率は0.95。1965年は金が140億6千5百万ドルであったのに対し対外短期債務は255億5千百万ドルで、対外短期債務に対する金準備の比率は0.55。
1970年は金が110億7千2百万ドルであったのに対し対外短期債務は417億6千百万ドルで、対外短期債務に対する金準備の比率は0.27。1972年は金が104億8千7百万ドルであったのに対し対外短期債務は607億3千4百万ドルで、対外短期債務に対する金準備の比率は0.17(資料:Federal Reserve System,Federal Reserve Bulltin.)というものでした。
 これではさしもの巨人・アメリカも背に腹は代えられません。具体的には、1951年にはIMF加盟国の公的金準備は335億ドルに達していました。この中でアメリカの保有額は229億ドルということで、実に68.4%を占めていたのです。ところが、17年後の1968年になると、加盟国全体の保有額は387億ドル、この中でアメリカの保有額は109億ドルまで減っていたのです。一方、外国銀行(各国の商業銀行及び中央銀行)が保有していた対米ドル債券の残高は、1951年の89億ドルから急速に増加していって、68年には385億ドルまで膨らんでいました。かくして、金への兌換要求がなされうる請求権は、アメリカに残っている金ストックの3.5倍にも達していたのです。
 そして迎えた71年8月15日、アメリカのニクソン大統領は声明を出しましたが、次の9項目から成り立っていました。
①金とドルとの交換の停止、
②新規国産設備に対する投資税額の控除措置、
③73年実施予定の個人所得税減税を1年繰り上げ72年1月より実施、
④7%の自動車物品税の廃止、
⑤賃金と物価の90日間凍結、
⑥生計費委員会の設置による生計費支出の抑制(47億ドル)、
⑦輸入品に対する10%の輸入課徴金、
⑧対外経済援助費の10%削減、
⑨輸出所得税の繰り延べから成
 これらのうち②、③及び④は雇用創出と国民の購買力の拡大策であり、⑤及び⑥は物価の上昇をくい止めようとする政策であり、また⑦、⑧及び⑨は米国の国際収支の赤字削減策を示すものでした(ROGER LEROY MILLER、RABURN M.WILLIAMS “THE NEW ECONOMICS OF RICHARD NIXON” Canfield Press、1972に大統領声明とそれに関連する法令の詳細内容が掲載されています)。 
 この中のドルと金との交換の宣言は、単に金を今後の国際取引に用いる通貨としないというばかりでなく、対外債務を決済するにもSDR(IMF特別引出権)の使用を禁止し、さらにスワップ取引を中止することをも求めるものでした。
 このことは、アメリカ経済への輸出依存が強い日本の経済にとっては晴天の霹靂であったに違いありません。僅かに、7月10日の時点で、経済学者36人が「円レートの小刻み調整についての提言」を行っていましたが、政府は円切り上げの外圧が日益しに高まってきたので、輸入自由化の促進で対応しようとしていたに過ぎません。
 西欧諸国はこれに反応して15日の夕方頃から相次いで一時的な外国為替市場の閉鎖をはじめました。フランスを例にとると、貿易などの商品取引においては固定相場制を維持するかたわら、資本取引においては自国通貨であるフランを自由変動に任せました。各国ともこの宣言が出てから1週間後には、事実上の変動相場制へと移行しました。
 ところが、日本のみはドル安となれば輸出が打撃を受けるとの考えから、国益が損なわれつつあることへの対応が鈍感で、7月16日から27日までその市場を開いていたのです。そのため東京市場は空前のドル売りに見舞われました。
 その間に下落するドルを日本の通貨当局は固定レートで買い支え続けました。その結果、46億ドル、円で表すと約1兆円分もの外貨が日本に流入したことは私たちの記憶に新しいところです。これでは国庫の損失がかさんでたまらないということで、8月28日夜になって、ようやく水田蔵相が変動相場制への暫定的移行を公表し1ドル=360円レ-トでのドル買い支えをやめたのです。
 ニクソン声明は輸入課徴金という面でも自由主義世界を震撼させるものでした。71年9月に開催されたガット(関税と貿易に関する一般協定)の作業部会でもこれを重大視して、この「課徴金は短期間に廃止しなければ世界経済及び国際貿易上重大なインパクトを与え、とくにガット創立以来の自由貿易政策を追求する上において必要な国際協力をマヒさせる」との報告書を出しました。
 こうした先進資本主義国間の通貨をめぐる対立を調整しないかぎり、為替切り下げ競争の再来なしとしないとの認識が高まったのが71年12月のワシントンのスミソミアン博物館での先進10か国蔵相会議にほかならず、この会議の合意では、当面の国際通貨の調整を図ることを最優先に次の3つの点で取り決めがなされました。
 一つは、アメリカは10%の輸入課徴金を撤廃し、金とドルの交換比率を1オンス=35ドルから38ドル、率にして7.9%引き下げました。二つは、主要通貨の対ドル交換比率をイタリア・リラの7.5%と円の16.88%(1ドル=308円)までの幅で切り上げられました。71年末時点のドルと円との市場での交換比率はの実勢は1ドル=200円に過ぎなかったことを勘案すれば、ドルの急激な価値下落を各国とも回避したい思惑が働いた結果といえるでしょう。3つは、為替変動幅を上下1%から2.25%まで広げました。
 しかし、それも長くは続かず、74年には資本主義世界は変動相場制へと移行しました。78年4月のキングストン体制になると、為替相場の自由化、金による払い込み、金平価を廃止することによって44年以来のブレトン・ウッズ体制の実質的機能は消滅したといって過言ではないでしょう。

(続く)

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