(292)『自然と人間の歴史・日本篇』公害列島(大気汚染)

2017-08-09 20:50:49 | Weblog
(292)『自然と人間の歴史・日本篇』公害列島(大気汚染)
 
 高度経済成長と公害の関係については、「それはあった」という外はない。1951年の朝鮮戦争を機に復興が急ピッチで進められ、それに伴って1950年代の半ばには、早くも「公害問題」が指摘されるようになった。
 1960年12月、政府・池田内閣は国民所得倍増計画を発表、それから10年後の1970年には国民総生産を2倍に引き上げると言う。産業育成面でこの計画は、四大工業地帯をつないで帯状に工業地帯を作り(太平洋ベルト地帯構想)と連動するものであった。
 1961年2月に入って、東京など大都市に連日、スモッグ(煙霧)が発生した。南に京浜工業地帯を抱えていることから、そのことの影響が人々の意識に上るようになっていく。大気中に浮遊するばい煙、排気ガスが原因で、許容量を超える有毒ガス(亜硫酸ガスなど)がたびたび検出され、呼吸器などの異常を訴え病院に駆け込む市民が続出した。1962年1月になると、東京都は都内3カ所に大気汚染自動記録装置を設置して観測を始めました。1963年に入るとスモッグ警報が日常的に出される。それでも、なかなか抜本的な対策が立てられなかった。
 大気汚染をひきおこす主な物質はSOX(硫黄酸化物)やNOX(窒素酸化物)である。人の鼻・口から肺までの通路は、細菌ウィルスなどが肺に入るのを防ぐ線毛でおおわれている。SOXやNOXなどの刺激物はこの線毛を破壊したり、炎症を引き起こす性質をもっている。そのため、病原菌やウィルスが簡単に体内に入りやすくなり、深刻な呼吸器障害を発生させる。これによって「気管支ぜん息」「慢性気管支炎」「肺気腫」「ぜん息性気管支炎」などの病気が起こる。これらの疾患にかかると、せきだしたら止まらない。息が苦しくなって患者の多くは「死ぬよりつらい」と言わせる程の発作に苦しみ、自宅や病院寝たきりとなり、学校にも仕事にも行けないという状態にまで追い込まれていった。
 大気汚染が広がることも公害であるし、水質や土壌が汚濁されたりする場合には、これと生態系で関連するさまざまな生物や、そこからの収穫物などにも汚染物質が拡散していく。
 これら日本列島の公害の蔓延に対し、患者や医療機関関係者の運動を背景に、自治体独自に患者の医療費の自己負担分を企業からの拠出金でまかなう制度が尼崎市、川崎市、四日市市などでつくられる。しかし、これは生活を補償するものではなかった。公害によって健康被害を受けた人たちが生活補償を含む救済を求めるには、被害者たちはさしあたって民事裁判で損害賠償を要求するしか手段がなかった。
 いわゆる「四大公害裁判」のひとつで、1967年9月1日に提訴された三重県「四日市大気汚染公害裁判」を例に取ると、一日公害企業からはき出される大気汚染物質(亜硫酸ガスなど)で市街地は汚染され、また流れ出る公害排水(塩酸を含む)によって伊勢湾の漁場は死の海になりかけていた。この裁判では、磯津の公害認定(入院)患者や漁師9名が原告となり、同市の第一コンビナート地区に事業展開していた当時の六社を被告にしての「四日市ぜんそく公害訴訟」の訴状が津地裁四日市支部に提出された。
 ここに被告六社とは「石原産業四日市工場」「中部電力三重火力発電所」「昭和四日市石油四日市製油所」「三菱油化四白市事業所」「三菱化成工業四日市工場」「三菱モンサント化成四日市工場」であった。このうち石原産業では産業を支えている「酸化チタン」を扱っていた。この裁判では、日本で初めての企業の責任を問う本格的裁判になっていく。
 ようやく1967年に公害対策基本法が、1968年に大気汚染防止法が成立し、公害対策の歯車がかみ合っていくようになるやに見えた、その矢先であった。けれども、同法の「経済の健在なる発展との調和が図られるようにする」旨の文言は、この法律の不徹底な面であり、この法律の抜け穴になっていたのではないか。
 この間、自動車メーカーや石油化学企業などは対策の前進に立ちはだかり、利潤拡大に歯止めをかけるような規制強化に一貫して反対しつづけたといっても過言ではない。こうした資本のかたくなな態度に怒りを結んだ被害者や住民、知識人・学生などは、全国各地で反対運動を強める。これら公害反対運動に基づき、1969年、「公害にかかわる健康被害の救済に関する特別措置法」が成立する。この法律により、四日市市の一部、大阪市西淀川区、川崎市の一部などが公害地域に指定され、その地域の住民で公害病と認定された健康被害者に対して、医療費の自己負担分についての補填が始まる。しかし、健康被害によって生じる社会的・財産的・精神的な損失、慰謝料など生活全体にかかわる被害に対して補償するものではなかった。
 一方、この制度の成立は、それまで自分は公害患者であるということを知らなかった人に、居住している地域が公害地域であり、大気汚染公害が原因で健康被害を受けていることを知らせることになり、各地で公害患者運動が広がるきっかけとなったていく。
 その後、1971~1972年には公害の企業責任を断じた四大公害裁判の判決がつづき、1972年にはいわゆる「無過失責任法」(大気汚染防止法及び水質汚濁防止法の一部改正)により、公害発生の原因をつくった者は、故意・過失にかかわらず責任を問われるとする汚染者費用負担原則(PPP)が社会の総意となっていく。
 また、民事責任をふまえた損害賠償を補償する制度について検討することになった。他方、尼崎市、大阪市、四日市市、川崎市では、自治体独自の大気汚染被害者の救済制度ができていました。こうした制度の流れを受けて、公害健康被害補償法が成立し、日本の公害反対運動はここに一つの到達点を見出すことになったのだ。

(続く)

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