◎30の5『自然と人間の歴史・世界篇』前漢から後漢、さらに三国の鼎立へ

2017-09-26 22:49:13 | Weblog
◎30の5『自然と人間の歴史・世界篇』前漢から後漢、さらに三国の鼎立へ

 紀元後の8年、前漢が滅んだ後には、新という帝国が建ったのだが、新皇帝の王莽(おうもう)の政治は時代の変化にそぐわず、その評判ははかばかしくなかった。そのため、社会にはなはだしい混乱に陥る。各地に群雄が割拠する中、新は漢王家の劉家一族更始帝によって滅ぼされる。ところが、その更始帝政権も中国をまとめることができず崩壊し混乱が続く中、やはり漢王朝の一族である光武帝(劉秀)が国内を再統一し、漢王朝を復興し、光武帝を名乗る。この王朝のことを後漢(東漢、25~220年)と呼ぶ。この光武帝の治世では、近隣の諸国や有力豪族らが朝貢し、当時の日本列島からも「奴国」(なこく)が詣でる。そして、「漢の倭の奴の国王」の意味の金印を授かっている。文字の発展についても、さらにあった。すなわち、前漢の時代の漢字は漢隷体であったものが、後漢になると楷書体となり、今日私たちが使っている漢字とほぼ変わらない体裁となっている。
 その後の後漢だが、2代明帝、3代章帝と名君が続いて国力を回復させる。班超の働きによって一度撤退していた西域にも再進出もするが、こちらははなばなしい戦果は挙げられない。それからは、皇帝の夭逝や無能な皇帝が続くようになり、宦官や外戚が国政に関与するようになっていく。ために、国力は低下していく。そして迎えた184年、黄巾の乱が起こる。これによって全国が混乱し、漢の統治力は大きく減退し、さらに宰相の董卓(とうたく)の暴政と、その董卓が192年に暗殺されたことで、漢王朝が実権を失って名ばかりとなっていく。以後は、各地に群雄が割拠する時代になだれ込んでいく。
 そんな中で、群雄の一人、曹操の庇護のもと、漢王室は名目のみ存続する状態となっていた。さらに220年に後漢が滅んだ後には、三国が覇を争う時代となっていく。華北の曹操、江南の孫権、蜀の劉備の三勢力に統合され、これらの三国が覇を争い合う、三国鼎立の時代となっていく。やがて、220年に曹操が死ぬと、息子の曹丕(そうひ)が後を継ぎ、後漢最後の君主であった献帝に皇位を禅譲させ、新たに魏王朝を建国するにいたり、ここに漢王朝は滅亡する。それからの三国の中では、いち早く蜀が魏にのみ込まれ、あとの魏と呉もそのうち魏の武将であった司馬氏によって責め立てられ、265年には西晋(~316年)による中国統一にとって代わられる。その後には東晋(317~420年)が現れてくる。

(続く)

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