(298)『自然と人間の歴史・日本篇』いざなぎ景気の終焉

2017-08-09 21:13:59 | Weblog
(298)『自然と人間の歴史・日本篇』いざなぎ景気の終焉

 1970年代に入ってからの日本経済の減速を、振り返ろう。
 「いざなぎ景気」(戦後から数えての第7循環)は1970年8月まで持続した。1971年には預金保険法が制定され、これに基いて預金保険機構という特別法人が、政府、日本銀行、民間銀行の共同出資で設立された。加盟しているのは日本に本店のある銀行、信用金庫、信用協同組合など。農林中央金庫や農業協同組合はほとんど同じ内容の農林産業協同組合貯金保険機構の島に入っていた。在日支店の形で営業している外資系銀行の場合はその対象にならないから入っていなかった。
 71年を谷とする景気は積極的な金融・財政政策がとられたことにより、「列島改造景気」に乗って拡大した。72年からは拡大テンポが強まって、いわゆる「ボトルネック」論が出るほど加熱していく。73年の有効求人倍率は1.76倍であった。72年末になると、積極財政が今度は物価上昇となって表れてくる。73年春からの金融引き締めも役立ちませんでした。73年秋には第一次石油危機が起こり、その後は鰻登りの物価上昇、いわゆる「狂乱インフレ」が現実のものとなる。
 ここに政府は総需要抑制策に転換した。73年12月には、公定歩合は戦後最高の9%にまで引き上げられる。これらの結果、74年から75年にかけて、日本経済は大きな景気後退に見舞われれる。
 その特徴としては、「スタグフレーション」と呼ばれる不況と物価高の同時進行があった。これらの変化と循環性の資本の過剰蓄積が絡み合うた中で、74年の秋頃からの日本経済は、戦後最大の不況に見舞われる。独占大企業はこの危機を労働者・勤労者への負担強化によって切り抜けようとする。これに先立つ72年5月には田中角栄氏が自民党内で田中派を結成、7月には田中自民党内閣が発足し、ブルトーザーまがいの公共事業財政刺激策を押し進めていた。独占大企業の政府が財政の大判振る舞いを演じたため、物価は狂乱したが、その背景にはこうした強い政治力のな行使があったのではないか。彼は、集票政治が巧みで、全国特定郵便局を自民党の集票マシーンに育て上げていった。しかし、この強力政治も76年7月には田中自身がロッキード事件で逮捕されたことで終止符を打たれる。


(続く)

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