(264)『自然と人間の歴史・日本篇』農地改革

2017-08-09 10:06:39 | Weblog
(264)『自然と人間の歴史・日本篇』農地改革

 美作を含め、日本の農村にかつてない程の大きな変化があった。それは戦後の民主化政策の一環としての農地改革であった。これについては、前史がある。つまり、1942年(昭和17年)、「食糧管理法」(いわゆる「食管法」)が施行され、食糧の国家管理が始まった。それまでの米穀法(大正10年制定)に代わって施行されていた、米穀統制法(昭和8年)を廃止して制定された。新しい法律では、生産された米は、農家の自家用分を除きそのすべてを政府が買入れる。それから国民への配給まで、米の集荷や卸、それから小売りに至るまでの流通ルートを国が指定し、米の買入価格や販売価格までも基本的に国が定めるものであった。
 米の生産と流通を統制することで国民が必要とする米の量を確保する、そのためには
農民の地位を高め、寄生階級としての地主の力を削ぐ必要があった。このため、農林省は
小作人であれ、自作農であれ、米を生産する農家(直接生産者)から政府に納入させる。これにより、小作農家は、そのときの政府の買上価格(=米価=米の代金)と同じ額を地主に対して支払うことになる。つまり、地代の現物納入が完全に金納に変わった。しかも、農家に対して政府は、次のような優遇措置をとったのだ。
 というのは、1941年(昭和16年)に決まった米の買上価格は一石(ほぼ150キログラム)当たり55円であったが、最初の米の生産奨励金は5円であったから、地主には55円しか渡らない。ところが、農民にはそれに5円を加えた60円がわたされる。以後は、米価のほうは据え置きが基本で、生産奨励金の方はだんだんにふやされ、戦中ということでは最後の1945年(昭和20年)には、245円にまで引き上げられていた。つまり、米価は55円のままなのに、農家には一石当たり300円が渡る仕組みに発展していたのである。これにより、地主階級が受け取る地代は相対的に大幅に下がっていたのであった。これをもって、「これは農林官僚のウルトラCで、戦争中の物価と米の統制のおかげで、農地制度の実質的な変化を進めていった。これが戦後の農地改革の基礎になった」(中村隆英「昭和経済史」岩波セミナーブックス、1986)とも評価されているところだ。
 こうした土壌の上に、敗戦後の農地改革が行われる。1945年(昭和20年)12月4日の衆議院に、当時の幣原(しではら)内閣が、農地の保有限度を5町歩(約5ヘクタール)に制限することを骨子とする「農地調整法改正案」を提出した。この法案は同19日には帝国議会で成立する(第一次農政改革)。ところが、同年12月9日、GHQ(「連合軍総司令部」または「連合国最高司令官総司令部」と訳される、General Headquarters、第二次大戦を勝利した連合国の日本統治(間接統治)で、その実施を担当する最高の権限者である連合国最高司令官を長とした幕僚組織)が「農地改革に関する覚書」を公表するる。その命令とは、旧体制の温存を図ろうとする内閣の姿勢を批判するとともに、「数世紀にわたる封建的圧制の下、日本農民を奴隷化してきた経済的桎梏」の「解体」を要求するものであった。
 「日本政府は、本司令部に対し、農地改革計画を昭和二一年三月一五日、或いは、それ以前に提出することを命ずる。この計画には、次の諸措置に関する成案を明示することを要する。
 一、不在地主から耕作者への農地所有権の移転
二、公正な価格による不耕作地主所有農地の買収に関する規定
三、小作人の所得に適応した年賦償還による小作人の農地買受に関する規定
四、旧小作人が、再度小作人に転落することを防止するための適正保護規定
・・・・・(以下、略)」(『岡山県農地改革誌』に掲載のものから引用させていただいた)
 その後、イギリスとソ連からも案がシメされるものの、日本政府としては根本的な土地改革は避けたい。そこで地主からの土地の無償没収を骨子とするソ連案を退け、地主からの有償従容と在村地主の平均1ヘクタールを残すというイギリス案を土台に自作農創設特別措置法案と農地調整法改正法案を作成した。その骨子は次のとおりとなっていた。
 「一、在地不耕作地主の保有面積を平均一町歩(北海道四町歩)に引き下げる。
一、不在地主の土地はすべて国家が買い上げ、小作人に売り渡す。完了期間は二年とする。
一、農地委員会を改組し、地主の圧迫を排除する。
一、小作料は金納とし、最高額をきめ、その契約は文書にする。
一、土地の買い上げに当たって、地主に農地券を公布。これは、一定期間流通を禁止する。
一、田畑の価格は従来通りとする。」(同)
 要するにこの案は、不在地主の全貸付地と、在村地主の1ヘクタールを越える貸付地(地域的には北海道を除く、山林所有は対象から除外)とを国が強制的に買い上げ、これを従来の小作農に有償で払い下げる。残った小作地の小作料は金納で納めるものとし、その率を低めるものである。
 この第二次農政改革案が政府で決定され、1946年(昭和21年)9月7日の国会に提出される。これが国会で可決・成立するところとなり、10月21日をもって公布されるに至る。これによって、地主制は基本的に解体され、多くの農民が小作農から自作農へと移行する道が開かれる。この改正案にもとづき、1947年(昭和22年)3月から1950年(昭和25年)7月にわたって小作地の買収と売渡しが実施される。対象の農地には、終戦時の対象小作地には寺院が保有している小作農地も含まれており、その規模は宗教法人数が177、総面積が4万848町(約12254万坪)となっていたとされる(農地改革記録委員会「農地改革顛末概要」、1951年12月時点の北海道を除いた計数)。この時、小作農が負担したのは、国からの補助金を差し引いたところの額で、政府の買上げ価格のおよそ三分の二であったと伝えられる。改革の出発時点での政府による田の買上げ価格は、平均で田一段(およそ300坪)あたり757円、畑は464円で、1950年(昭和25年)まで据え置かれる。
 こうして、この農地改革の前には全耕地中に小作地面積が占める割合はおよそ46%であったものが、改革終了時の1950年(昭和25年)8月には、右の比率が10%に激減した。全国に散らばっていた大小の小作地はその後も漸減し、1960年(昭和35年)になると、6.7%にまで低減」(川上正道「戦後日本経済史入門」新日本新書、鵜飼秀徳「寺院消滅ー失われる「地方」と宗教ー」日経BP社、2015などによる)したことになっている。なお、地主が対象の土地の強制売却で得た貨幣の価値の大方は、戦後のインフレの中で大方の価値が失われていったことを付記しておきたい(数字は、鵜飼秀徳「寺院消滅ー失われる「地方」と宗教ー」日経BP社、2015から引用させていただいた)。
になっている。 
 参考までに、第二次農地改革案が出された段階で岡山県当局が作成した、同改革による農地解放計画の内容は、次のようになっていた。まず岡山県の農家戸数は、16万2146戸である。その農地面積10万7474町90、自作地面積6万4272町30、小作地面積4万3202町60、全農地面積に対する小作地面積の比率40%である。このうち同改革に基づき県当局が作成した「農地解放計画」によれば、津山市の農家戸数は、1946戸である。その農地面積1588町68、自作地面積839町06、小作地面積759町62、全農地面積に対する小作地面積の比率47%のところを、解放小作地面積525町歩、解放率70%を見込む。
 次の一つの例として苫田郡の農家戸数は、7515戸である。その農地面積5762町58、自作地面積3569町28、小作地面積2193町30、全農地面積に対する小作地面積の比率38%であるところを、解放小作地面積1535町歩、解放率70%を見込む。さらにもう一つの例として勝田郡の農家戸数は、8721戸である。その農地面積6731町12、自作地面積4156町10、小作地面積2475町02、全農地面積に対する小作地面積の比率37%であるところを、解放小作地面積1733町歩、解放率70%を見込んでいた。
 ここに戦後の農地配分が確定される。この新たな基礎で、戦後の我が国のコメ生産と流通のシステム、つまり政府による食糧管理制度が運営されていく。ここにつくられた体制は、その後、1995年11月に新食糧法、つまり主要食糧の需給及び価格の安定に関する法律の施行でとって代わられるまで、およそ50年を生きる。その下では、計画外の流通米を認めないこと、営業区域規制、すなわち卸売り一定のブロック圏内の隣接都道府県、小売り業者は都道府県内を超えての販売は禁止であること、さらにこの分野への新規参入を原則禁止とすることになって、コメ市場を全体的に政府が管理することになったのである。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« (262)『自然と人間の歴... | トップ | (263)『自然と人間の歴... »

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事