(266)『自然と人間の歴史・日本篇』朝鮮特需からの生産拡大

2017-08-09 10:14:48 | Weblog
(266)『自然と人間の歴史・日本篇』朝鮮特需からの生産拡大

 1950年(昭和25年)に朝鮮戦争が始まると、日本経済は上向きに転じていく。主としてアメリカ軍などの「特需」が増え、かつての軍需工場なども息を吹き返すところが続いた。翌1951年(昭和21年)、政府は、産業政策を総動員して独占大企業の経営を積極的に後押しするようになった。具体例を幾つか挙げると、外国為替貸付制度の創設や、重要機械類の輸入関税免除、鉄鋼業の2分の1特別償却、価格変動準備金制度の導入、貸倒引当金制度の拡充、企業合理化促進法に基づく初年度2分の1の特別償却がある。朝鮮戦争ブーム期において、これらの政策支援を利用した新規の設備投資が多くの産業で支配的となり、その後の反動期の過剰生産を準備することとなり、戦後の景気循環が始まったといっていい。
 日本からの輸出は、1949年の510(百万ドル)を皮切りに、1950年には820(百万ドル)、1951年には1355(百万ドル)、1952年には1273(百万ドル)、1953年には1275(百万ドル)、さらに1954年(百万ドル)になると1629(百万ドル)と増えていく。
 瀬戸内では、戦前、戦中の時期を通じて、以前からの紡績(10社による寡占体制を組む)など消費財製造業に加え、軍事などの基幹産業の重みが徐々に増してきていた。戦後の初めての過剰生産を経験してからの紡績業などは、自らの系列の下請工賃を切り下げるほか、新たな市場確保の道を内外に求めるのであった。一方、高度成長期になって、国の政策の後押しで工業用地建設のための埋め立てなどが大いに進んだ。ここでの立役者は鉄鋼や石油化学を初めとする重化学業種であって、政府の産業政策による支援をうけつつ、臨海部に大型の生産拠点を次々と建設していった。岡山県と倉敷市の財政では、水島港の建設だけでも1953年(昭和28年)から1961(昭和36年)までの間に約56億円が投下され、国の負担額はその1割であったと伝えられる。その水島には、三菱石油、川崎製鉄に加え、日本鉱業、中国電力、東京製鉄、日本樹脂化学、倉敷レーヨンなどの誘致が決まり、水島臨海工業地帯を形成してゆく。
 1955年(昭和30年)11月、通商産業省(現在の経済産業省)の研究機関である地質調査所の研究チームの一行は、美作の奥に位置する、鳥取県側にある倉吉鉱山の鉱脈調査に当たっていた。これに至るには国の事情があり、つぎのように伝えられている。
 「日本の原子力開発が始まったのは、ちょうど50年前の1954年であった。日本では、「核」は軍事利用、「原子力」は平和利用であるかのように使い分けられてきたが、技術の本質から、核技術と原子力技術は同じものであり、原子力開発に手を付けてしまえば、必然的に核開発に繋がる。それを知っている学資やたちは当初、日本が原子力=核開発に踏み込むことに抵抗した。ろが、当時の中曽根康弘は「ぼやぼやしている学者の頬を札束でひっぱたく」という言の下、1954年3月、突如として国会に原子力予算を提案した。その原子力予算の内訳は、2億3500万円(燃えるウラン、Uー235の質量数にあやかった額)の原子炉建設調査費と、国内ウラン調査費1500万円、合計2億5000万円であり、この時に認められた国内ウラン調査費1500万円は、国内でのウラン探鉱に一気に火を付けた。」(小出裕章「原発のない世界へ」筑摩書房、2011)
 この西日本の山間地では、ほそぼそ金や銀、銅などが見つかっていたが、かれらの目的は別にあった。というのも、それまでの調査で、それらの産出物の中に、何とウラン鉱物が見つかっていたのだ。けれども、そこでの調査の結果は微量のウラン鉱物が見つかっただけで、専門家の一行は調査を切りあげ、岡山県側への山越えで帰途に就きかけていて、人形峠(岡山県鏡野町上斎原村人形峠)を歩いていた。その峠には、茶屋がひとつあるだけで、人の往来がほとんど見られない僻地であったというほかはない。調査団一行がその頂上付近で一服していると、ジープに装備してあったガイガーカウンターが鳴り響いているのが見つかる。それからは、付近の道路脇のそこかしこを調査して廻ったところ、たしかにかなり大きなウラン放射能の反応が見てとれる。そこで、急遽、とりあえずの調査が行われていった。
 それからの調査でわかってきたのが、まだ人間の命は吹き込まれていないこのあたりの岩盤に大いなる希望が宿っていることが確実になってゆく。この地層は、花崗岩の厚い層が基盤を構成している。その上に、長い間に泥が堆積して、地質学でいわれる「第三期層」を形づくっているそうである。その泥土岩の下部に、ウランをかなり多く含む地層が横たわっているのを突き止めた。この岩石の堆積層から見つかったウラン鉱石の種類としては、
「リン灰ウラン石」といって、成分的にはカルシウムとウランのリン酸塩から成っている。その形状としては、黄色の四角板状結晶のほか,皮膜状などもある。私がこの石を初めて見たのは、筑波にある工業技術院地質調査所付属の記念館でのことであった。その中のある展示室にガラスケースがしつらえてあって、仄暗い暗所で手元のテーブルの上のボタンを押すと、そのケースの中に置かれているウラン鉱に紫外線が充てられる仕掛けになっており、それを当てると黄緑色に発光する。そこで発せられる光が何やら神秘的なのが気に入って、何度も操作を繰り返しては、我が故郷にかけた思いの一つも浮かんでいたのかもしれない。
 この両県境の人形峠でのその後の発掘で、この峠で産するウラン鉱の多くは、微細な黄鉄鉱や石膏などと混ざってある岩のすき間などに見られるとのこと。成分的にはリン灰ウラン石と成分が似ているものの、それとは少し違う、ウランのリン酸塩鉱物としては特異な鉱物であるとのことだ。色は、わずかに緑味を帯びた、いわば「煤(すす)」のような黒色粉末状であって、これに紫外線を当ててもで発光することはない。そこで、この石は、最初の産出地のウランを採掘していた岡山県-鳥取県境の人形峠鉱山に因んで「人形石」命名された。この他にも、「リン銅ウラン石」といって、銅とウランのリン酸塩ウラン鉱石が、その後の岡山県岡山市剣山で見つかっていて、こちらは、緑色の4角板状結晶や皮膜状などとして産出されている。こちらの特徴としては、リン灰ウラン石と結晶構造が同じでありながら、そのカルシウムの代わりに銅を含んでいる鉱物であって、見分け方としてはリン灰ウラン石とは異なり紫外線で発光しないようである。

(続く)


☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« (265)『自然と人間の歴... | トップ | (267)『自然と人間の歴... »

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL