『美作の野は晴れて』&『138億年の日本史』&『岡山(美作・備前・備中)の今昔』

自分史と、日本史と、岡山(美作・備前・備中)の民衆史です。

◎九八の一『138億年の日本史』室町時代から安土桃山時代にかけての精神風土

2017-06-15 09:08:22 | Weblog
九八の一『138億年の日本史』室町時代から安土桃山時代にかけての精神風土

 室町期の世の中は、それまでに比べ幾分なりとも明るかったのだろうか。それまでに1000万人を超えるに至っていたであろう日本の総人口のうち、どれくらいが一般民衆であったのだろうか。そして、権力者を中心とする金(かね)と権力を使ってのものではない、民衆レベルにまで文化的な要素、恩恵が到達し、根付いていった時期なのであろうか。
 心を穏やかにしてざっと看るに、この時代は日本独自の文化が幾つも花開いた時期だと言われる。それなので、明るい光がさっというか、だんだんとというか、とにかく射し込んだというか、文化的にも新しい時代を告げる息吹のようなものが、いろいろと世に出て来た。ざっと数えるだけでも、建築では、書院造りや石庭、枯山水などを施した庭園が設けられていく。新しいたたずまいからは、茶の湯、猿楽、陶磁器づくりなどが生まれる。
それより前の時代からの伝統文化についても、盆栽(ルーツは鎌倉時代か)等々、新たな工夫が重ねられたものと見える。それらに応じて、担い手となる文化人なる者が輩出していった。まさに、今日まで伝わる日本文化の基礎が次から次へと蓄積され、踏み固められて幾層にもなっていく時代なのであった。
 教科書的にもとり上げられる、有名なところでは、京の都を舞台に北山文化と東山文化とが、権力者である足利氏の主導で繰り広げられていく。ここに北山文化とは、室町時代の初期、第3代将軍足利義満(あしかがよしみつ)が京都北山(きょうときたやま)に建てさせた金閣(きんかく)に代表される、きらびやかな建築をもって嚆矢(こうし)とする。武家文化と公家文化との融合があった。また、東山文化とは、15世紀後半の将軍足利義政(あしかがよしまさ)の頃から、地味な、それでいて精神的な深みをたぐり寄せようとした文化をいう。
 だからといって、堅苦しいばかりではなかったし、中国からの輸入そのままというものでもなく、日本独自の文化が数多く顔を出した時期でもある。こちらは、建築様式としても人々の日常生活にぐんと近づく、いわゆる文化の大衆化にほかならない。また、禅宗風の中国文化が融けあわさって新たな息吹が吹き込まれたのが、この時代の特色だといえよう。五山(ござん)文学や水墨(すいぼく)画が発達した。観阿弥(かんあみ)、世阿弥(ぜあみ)父子が出て能楽(のうがく)を生み出したのも、これに含まれる。
 とはいえ、これらのものが、全て順調にそれからの時代の流れについていけたということではなかった。特に、室町の中盤から末期にかけては、戦国時代とも呼ばれる。それでは、「戦国文化」なるものが存在したのであろうか。この政治的混沌の時期につくられたであろう『かちかちやま』や「舌きり雀」などの童話においては、この時代の殺伐たる空気が読み取れる。そこで話を進めるために、一例を掲げよう。
 かの『桃太郎』伝説も、その原型は、この時期に出来上がったのではないかとも言い伝えられ。これの雰囲気は、後代につくられる桃太郎の歌にも、取り入れられたことだろう。というのも、この歌は一般には、ほのぼの、ほかほかとした、血の通った温かな人間感情が伝わってくるものと、前向きの印象を持たれる向きが多いのかもしれない。ところが、じっくり読むといささか違う。この歌も4番目、5番目の歌詞へと進むにつれ、ガチガチという位に固くなな、残酷なものとなっていっている。なにしろ、現在の岡山県人にとっては、子供の頃からの、余りに身近な歌なものだから、多分にこれまで幾たび歌ったか、数え知れない程だ。
 「1.桃太郎さん、桃太郎さん。お腰につけたキビダンゴ。一つわたしに、下さいな/
2.やりましょう、やりましょう。これから鬼の征伐に。ついて行くなら やりましょう/3.行きましょう、行きましょう。あなたについて、どこまでも。家来になって、行きましょう/4.そりゃ進め、そりゃ進め。一度に攻めて攻めやぶり。つぶしてしまえ、鬼が島/5.おもしろい、おもしろい。のこらず鬼を攻めふせて。分捕物(ぶんどりもの)をえんやらや/6.万万歳、万万歳。お伴の犬や猿キジは。勇んで車を、えんやらや」(作詞:不祥、作曲:岡野貞一氏による歌詞)
 この作り話の由来については、万物を干支(えと)でもってあてはめようという、陰陽五行説と関わりも指摘されている。江戸時代までには、今日に知られる全体の構成がかなり出来上がったらしい。この物語は、鬼門の「丑虎」(うしとら)に対して、従わない者と見立てる。その者たちが住んでいるのは、「鬼ヶ島」だという。そこで、これを力をもって征伐を加えたい。構成の妙となっているのは、桃太郎には、悪を懲らしめるという大義名分がある。しかも、一人で征伐したのではなくて、猿や鳥や犬を黍団子の半分ずつを与え、彼らのやる気を引き出したことになっている。一説には、この話の発祥を岡山の吉備の里に見立てる向きもあるものの、その種の話は日本全国に散らばっているとみる方が道理にかなっているのではないか。
 室町後期から戦国期にかけての仏教は、相次ぐ飢饉と戦乱の中で、弱い立場の人々を万人を救うことに力を発揮したのだろうか。残念ながら、聞く者の心をつかんで話さないような美談は、ほとんど伝わっていない。例えば、読売新聞『室町の飢饉、仏教文書に記録、興福寺で発見新興宗教に原因求める』なる記事は、当時の仏教界の索漠とした状況をこう伝えている。
 「室町時代後半(16世紀初め)の大和で大飢饉が発生し、多数の死者が出たことを記した古文書が奈良市の興福寺で見つかった。
 それによると、1503年5月以降雨が降らず、興福寺や東大寺が雨乞いをしたが効果なく、損害は甚大になった。
 馬借(ばしゃく・運送業者)が多くの寺を焼き、悪事を働いた。
 冬は厳寒で翌年2月は大雪。 物価も高騰して餓死者が多く発生し、般若寺や白豪寺などでは、集められた死体で足の踏み場もないほどだった。
 4月中旬からは疫病が流行し、付近の村では、どの家にも病死者が2~5人いて葬式の鐘が絶えず、念仏ばかりが聞こえた。筆者は『涙も枯れ、哀れな気持ちでいっぱい。(仏教者として)懺悔の気持ちがわく』と無念を記し、『みんな一向宗になって悪い考え方が増えた。尊い神様が警告しているのであろうか』と原因を一向宗に求めている。
 一向宗は鎌倉時代に生まれた浄土真宗の別称。従来の仏教が禁止していた、肉食や妻帯を認めたため、伝統仏教の興福寺などはこれを”悪の教え”として否定しており、文書には拡大への強い危機感が見られる。
 同寺ではすでに、15世紀半ばに一向宗を禁じている。」(2009年10月2日付け読売新聞)

(続く)

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