○○28『自然と人間の歴史・日本篇』縄文時代の定住生活

2015-12-31 07:08:04 | Weblog

28『自然と人間の歴史・日本篇』縄文時代の定住生活

 定住というのは、他の特別な事情のないかぎり、なるべく自然条件の適した場所を選んで進んでいく。そのことが与える影響は実に大きい。不慮の事故や怪我を減らし、身体へのストレスを軽減することにもなっていく。日を重ねる毎に、それぞれの共同体の中で、構成員の病気の罹患率や死亡率を低下させる一方、母体の安全が増進されることなので出生率の上昇が期待できるであろう。それらの結果、人口は従来に比べ、安定的かつ着実に増加していくことが可能になっていったのではないか。その際、定住を可能とした最大の要因としては、、農耕や高度な狩猟採集への移行が働いたのではないか。
 人々がそれぞれの土地に暮らすことができ、かつ飢餓に苦しまないためには、毎日の食料が自然界から調達出来なければならぬ。そして食糧危機を打破したものこそ、農耕の始まりである。約1万年間前から約9000年前になると、中近東のメソポタミアで麦の栽培や牧畜が始まった。これと同時に使用されだしたであろう新しい石器になぞらえ、「新石器革命」と呼ぶ。これにより、生き残っていた人類の急激な人口増加が始まったであろう。
 約9000年前の中国南部、揚子江流域では、イネの栽培が開始された。また約7000年前から約4000年前にかけてのメキシコの南西地域では、野生種であるテオシントから改良種のトウモロコシが生み出される。近縁の野生種であるテオシントは丈が低く、実の数も十数粒と少なかったのを、改良種で多収穫名ものに改良したのである。他にも、約1万年以上も前から、東南アジアやアメリカ大陸で、イモ(ジャガイモ、タロイモ、キャッサバなど)類やトウモロコシ栽培に根ざした農耕が始まる。これらに支えられ、5500年前にかけては、この地球上に、自然発生的な共同体から脱皮したメソポタミア、エジプト、インダス、中国(揚子江、黄河)などの文明が相次いで出現するのである。
 もちろん、縄文期においては農耕に頼らない、定住生活がむしろ広範にあって、それが当時の一般的で支配的な姿であったことを否定するものではなかろう。正に、定住を通して人々がいかに暮らしてきたかが彷彿としてくるのであって、「古代は蘇る」の感じが濃く感じられる。それまでは孤立していたかに見える、温暖期に入ってからの日本列島の「縄文時代」においても、定住が広く行われていたことが1990年代からの遺跡発掘でわかってきた。列島全体への分布状況はまだわかっていないものの、三内丸山遺跡(現在の青森県)及びその周辺に限って云うと、栗などの栽培を通じての定住によって、少なくとも数百人を下らない規模での生活共同体が運営されていたことが判明しており、当時、この地の比較的温暖かつ湿潤な気候が彼らの定住生活の持続的展開を可能にしたと思われる。
 縄文自体中期の遺跡から、東北の山内丸山(さんないまるやま、現在の青森県)遺跡を令にとってみよう。そこで人々は、動物の狩りをしたり、川や沼、湖、海などにいる魚を捕ったり、栗とかの植物の実をとったりの多様な労働にあけくれ、竪穴式住居なりに持ち帰って食物にあてていた。このような生活様式を「狩猟採集社会」と呼んでいる。
 今日の考古学による発掘によると、縄文期は百花繚乱とまではいかないにしても、実に多彩な生活様式があったことがわかっている。とはいえ、縄文人が動植物を食べ尽くすのではなく、たぶん、これらにより狩猟、採集した魚を燻製にしたり、栗などの保存のきく食物は冬まで乾燥したところで貯蔵しておいたのではないか。
 なお、沖縄では現在まで古墳が見つかっていない。その訳は、そもそも古墳を作る文化がなく、そのため一切造られなかった。沖縄は明治時代になってから、日本と言う別の国に強制的に組み込まれた。それまでは「琉球王国」という独立国が統治しており、日本史のらち外にあった。その沖縄では、何万年もの間狩猟中心の生活をしていたのがわかっている。これは、世界史の上でも珍しいこととされている。そのためか、日本史の縄文時代、沖縄では「貝塚時代」とか「縄文弥生~平安平行期」の時代区分で語られる。喜納大作、上里隆史の両氏による解説に、こうある。
 「貝塚時代の沖縄の人々は農耕ではなく狩猟採集の生活を営んでいました。狩猟採集とは森に行って木の実を採ったり、動物を狩ったり、海で魚を捕らえたり、それを食料として生活をすることです。狩猟採集と言うと、何となく農耕より「遅れている」イメージがありますが、人類学の研究によると実はそうではなく、ヒトの優れた生き方なのだそうです。狩猟採集の生活が何らかの理由で成り立たなくなった時に、ヒトは農耕を受け入れると考えられています。つまり沖縄では、日本が平安時代となる頃まで、わざわざ面倒くさい農耕をしなくても暮らしていけたのです。・・・一方、これらの文化は宮古諸島や八重山(やえやま)諸島までは届いておらず、宮古・八重山は南(東南アジア)からの文化の影響を強く受けています。」(喜納大作・上里隆史「新装改訂版・琉球王朝のすべて」河出書房新社、2015)
 さて、私が今の比企丘陵(埼玉県西部)に来る前、横浜市金沢区の南隣に位置する夏島(なつしま、横須賀市)には、一万年近く前に貝塚遺跡が展開していたという。貝塚というのは、当時の人びとが食べた貝などのごみ捨て場のことだ。今から50年ばかり前の「放射性炭素14」による年代測定によると、夏島カキ貝殻は9450年プラスマイナス400年BP(当時の暫定値、BPというのは「ビフォア・プレゼント」ということで、1950年から何年経っているかの指標である、以下同じ)であった。また、カキの煮炊きに用いたであろう木炭の推定年代は9240年プラスマイナス500年BPであった(大塚初重「歴史を塗り替えた日本列島発掘し」による)。
 今でも、その夏島の近くの野島(横浜市金沢区)の海面から12~3メートルくらいの高台に登ると、少なくとも鎌倉期から天下の名勝地として関東一円に知れ渡っていたであろう「金沢八景」の美しい景色が己の視界に一望できることから、当時の人々の往時の姿がなんとなく彷彿としてくるではないか。私の故郷である西日本においても、瀬戸内海の黄島(きしま)貝塚からも縄文時代早期の押型文土器が発見されており、こちらの推定年代は8400年プラスマイナス350年BPとされていることから、その当時、日本列島のかなりの広い地域にそうした生活様式が広がっていたことが覗える。

(続く)

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