『美作の野は晴れて』&『137億年の日本史』&『岡山(美作・備前・備中)の今昔』

自分史と、日本史と、岡山(美作・備前・備中)の民衆史です。

◎新(9の3)『137億年の日本史』世界文明の曙(エジプト)

2016-10-15 18:55:42 | Weblog
(9の3)『137億年の日本史ー美作・備前・備中の今昔』世界文明の曙(エジプト)

今は宏大なサハラ砂漠の山岳地帯には、中石器時代からの壁画(彩画や彫画)の数々が
残っている。一番古いものでは、象の画がある。ついで狩猟民の時代になると、鹿、水牛、カバ、ワニなど、多様な動物が描かれている。紀元前6000年から同4000年前のことであったとされる。さらに下ると、牛の放牧、それから馬の時代となり、最後には駱駝と人間が行く姿となる。現在のアルジェリアのタッシリ・ナジェール地方から見つかった駱駝の画の下方には、古代のティフィナグ文字が見られる(平凡社刊行の『アフリカを知る辞典』から)。21世紀初頭の現在、地球上に約6000もの言語が残っているという。その頃の世界には、どれほどの言語なり、文字文化が育っていたのだろうか。
 さて、エジプトでは、紀元前6000年頃、農耕と牧畜の双方が始まった。大河ナイル流域に移り住んできた人々は、一体どこからやってきたのであろうか、そのことはまだはっきりしていないらしい。これを「先王朝時代」、固有名詞では「ナガータ文化」と呼ぶ。農耕をやるには、ナイル川の流れを頼りにしなければならなかった。ナイル河岸の土地は大変肥沃で、洪水が去った宏大な土地に麦などの種子を蒔(ま)けば、下流部の温暖な気候もあって、作物がすくすく育っていったであろう。「エジプト文明はナイルの賜」とは、この道理に着目した言葉にほかならない。先史年代における人々の精神構造の一端は、その頃までの創生神話からも覗えるのではないか。その一つ、ヘリオポリスの神話では、太陽神アトムが万物の創造主だとされる。この神は、後の王朝時代に太陽神ラーと合体もしくは同一視されていく。
 紀元前3000年頃、初期王朝時代が始まった。ナルメル(メネス)王による上・下エジプトの統一であった。首都はメンフィスに置かれた。ちなみに、あのヒエログリフ(聖刻文字)で「上下」エジプトの王と書かれるのは、上下二段の上段右側に植物の「スゲ」を、その下に「パン」の形を記すことで、あわせて「ネスウト」と呼むことで「上エジプトの王」となる。それから上段の左に「ミツバチ」の形をやや細かくあしらい、その下に今度はやや大きな「パン」を描いて、これで「ビティ」と発音して「下エジプトの王」となる。これらの両方を兼ね備えた二重性の表現こそ、上エジプト(メンフィス以南のナイル川流域)と下エジプト(ナイル・デルタ)の統治を表すものであった(大英博物館編「ヒエログリフがわかる絵本」創元社、2005)。
 紀元前2650年ころ、古王国時代の先駆けとなる第三王朝が始まった。これの初代はネプカー王で、二代目のジェセル王と繋がる。後者の治世の頃には、ホルス神が確立する。この神は、ハヤブサの姿をしており、おそらく先史年代既に土地の守り神として崇拝の対象であったものと推測されよう。そのジェセル王政の宰相にして、階段ピラミッドの造営を設計・施行したのがイムヘテプであった。彼は神官や天文学者、初期の肩書きもっており、諸々のエジプト王朝の後世に医学の神としてまつられる希有な人物であったようだ。
 紀元前2610年頃、第四王朝の初代スネフェル王の治世が始まった。彼は、「約二十四年間在位し、その間に、リビアやヌビアに遠征隊を派遣したりの、活発な外征を行う。二代目はクフ王で、ギザに第一ピラミッドを造営する。もちろん、実際に設計した人物は別におり、工事に参加した多くは王国の自由民であった。次のジェドエフラー王を経てカフラー王、メンカフラー王と続き、この二人のピラミッドもギザのクフ王のピラミッドのそばに造営される。スフィンクスは、太陽神ラーの化身とされる。紀元前2490年頃に第四王朝が尽きると、ウセルカフ王が立ち、第五王朝を始めた後は8人の王が立つ。その間に、太陽神ラーが最高神となって、王の称号に太陽神の息子名が加わる。
 エジプトの古王国はここで途切れ、紀元前2180~2040年頃までかつての国内は混乱し、各地に諸王が割拠するが、やがて乱世の中で力をつけてきた、テーベを拠点とするメンチュヘテプ二世によって、エジプトは再統一される(第十一王朝)。ここからが、中王国時代という。都をテーベに定める。紀元前2000年頃、文藝の振興が見られる。『シヌへの物語』などがある。だが、第十二王朝へと繋がっていくうちに、この中王国時代も紀元前1785年頃には終末期を迎える。それから紀元前1565年頃までの200年余りは、第二中間期で混乱していた。
 そして新王国時代へと入っていく。紀元前1570~1070年頃が、この時代に当たる。その中で異彩を放っているのが、「アマルナ時代」であった。この名前は、、現在の首都カイロから南に300キロメートル余り南に行ったところのナイル川東岸にあった、紀元前1353年頃のエジプト第18王朝(新王国)後期のアメンホテプ4世が建設した首都の名前である。首都移転の動機としては、宗教が絡んでいたと見られる。それまで、カルナック神殿のアメン神官団による王の政治への干渉はかなりのものとなっていた。これに対処し合う件を高めるため、王はその一掃を企てる。エジプト国家としてのアメン信仰を改め、それに代わって太陽神アテンへの信仰を打ち出した。アテン神のルーツは古かったのだが、太陽神ラーがアメン神と結びついたことで下火になっていた。さしずめ、アメン神は神官という集団を媒介項として成立したのに対し、アテン神は王が直接第一人者となることができるものとして受け入れられたのではないか。この時代を「アマルナ時代」と呼ぶ。この時代には、写実的な芸術の数々が華開いたことで知られる。しかし、独裁者アメンホテプ4世が死ぬと、待ち構えていたように力関係は王権の弱体化へと進んでいく。新都は放棄され、またアテン神は無視され、アメン神への信仰が復活するに至る。
 紀元前172年頃民族のヒクソスがナイルのデルタ地域に侵入し、やがて下エジプトを占拠するにいたり、エジプトは異民族の支配下に置かれる。ヒクソスは鉄器と鉄製の戦車を持っており、エジプトの兵は青銅器製の兵器を持っていた。ヒクソスの支配下で十三王朝から十六王朝までの時代を経て、テーベから進出した第十七王朝によってヒクソスが追放され、新王朝となる。ここに新王国時代が始まる。王家の谷に王墓が営まれた。トトメス3世の海外遠征があった。いわゆるアマルナ時代があった。ラムセス2世の遠征があった。紀元前1000年頃、プンセンネス1世。末期王朝時代となる。紀元前525年、現在のイランを根拠地とするペルシアにより、エジプトは征服を受ける。紀元前330年、マケドニアのアレクサンドロス大王によりエジプトはペルシアの支配から解放される。
 同大王の流れを汲むプトレマイオス王朝が始まる。都は、アレクサンドリア。1799年、ナポレオンによるエジプト遠征軍に随行していた学者たちが、ナイル河口の町ロゼッタの土の中から発見された石の碑文に目を見張った。後に「ロゼッタ・ストーン」と呼ばれることになるこの石には、三つの言語による文書が刻まれていた。上段にはヒエログリフとよばれる象形文字、中段にはデモティックとよばれる民用文字、下段にはギリシア文字である。これらの文章の内容はいずれも同じであり、紀元前196年、プトレマイオス王朝の行政向きの事柄が記されていた。具体的には、冒頭の「この法令は硬い石碑に、聖なる文字と、人民用の文字とギリシア語とで刻まれ、第一、第二、第三(級)の神殿に、永遠に生きる王の側に安置されるであろう」から始まり、全体としてプトレマイオス5世エピファネスのの裁冠一周年を記念し王本人を現人神と布告することにより、その善政を讃えている。この王は、紀元前205年、6歳にして王位についていたギリシア人の王であった。
 紀元前1世紀末、エジプトはローマにより征服される。最後の王は、女王クレオパトラであった。

(続く)

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