◎30の4『自然と人間の歴史・世界篇』歴史家・司馬遷の見た古代中国世界

2017-09-26 22:48:05 | Weblog
◎30の4『自然と人間の歴史・世界篇』歴史家・司馬遷の見た古代中国社会

 司馬遷の『史記』の「列傳・太史公自序]」には、こうある。
 「維(こ)れ我が漢、五帝の末流を継ぎ、三代の業を接(つ)ぐ。周道廃れ、秦は古文を撥去(はっきょ)し、師書を焚滅(ふんめつ)す。故に明堂(めいどう)石室(せきしつ)、金匱(きんき)玉版(ぎょくばん)、図籍(とせき)散亂(さんらん)す。是に於いて漢興(おこ)り、蕭何(しょうか)は律令(りつれい)を次(つ)ぎ、韓信は軍法を申(の)べ、張蒼(ちょうそう)は章程(しょうてい)を為し、叔孫通(しゅくそんとう)は禮儀を定む。則ち文学彬彬(ひんぴん)として稍(ようや)く進み、詩書往々にして間出(かんしゅつ)す。曹参(そうしん)自ら蓋公(がいこう)を薦めて黄老を言ひ、而して賈生(かせい)、晁錯(ちょうそ)は申商(しんしょう)を明らかにし、公孫弘(こうそんこう)は儒を以て顕はる。百年の間、天下の遺文古事の畢(ことごと)く太史公に集まらざるは靡(な)し。
 太史公よって父子相続(あひつ)いで其の職を簒(つ)ぐ。曰く、ああ、余維(おも)ふに先人の嘗(かつ)て斯の事を掌(つかさど)りて、唐虞(とうぐ)に顕れ、周に至り、復た之を典(てん)す、故に司馬氏は世に天官を主(つかさ)どり、余に至る、欽(つつし)み念(おも)ふかな、欽み念ふかな、と。天下の放失せし旧聞を罔羅(もうら)し、王迹(おうへん)の興(おこ)る所、始を原(たづ)ね終りを察し、盛を見(あら)はし衰を観、之を行事に論考し、三代を推略し、秦漢を録し、上は軒轅(けんえん)を記し、下は茲(ここ)に至り、十二本紀を著(あらは)し、既に之を科條(かじょう)す。時に並べ世を異(こと)にし、年差明らかならず、十表を作(な)す。
 禮楽は損益し、律暦(りつれき)は改易し、兵権・山川・鬼神、天人の際(きわ)、敝(へい)を承け変に通ず、八書を作す。二十八宿は北辰(ほくしん)を環(めぐ)り、三十輻(ふく)は一轂(こく)を共にし、運行窮(きわ)まり無く、補拂(ほひつ)股肱(ここう)の臣を焉(これ)に配し、忠信は道を行ひ、以て主上に奉ず、三十世家を作す。
義を扶(たす)け俶儻(てきとう)にして、己をして時に失はしめず、功名を天下に立つ、七十列伝を作す。凡そ百三十篇、五十二万六千五百字、太史公書と為す。序略、以て遺を拾ひ芸を補ひ、一家の言と成す。厥(そ)れ六経(りくけい)の異伝に協(かな)ひ、百家の雑語を整斉(せいせい)し、之を名山に蔵し、副を京師(けいし)に在し、後世の聖人君子を俟(ま)つ。
 第七十。太史公曰く、余、黄帝以来太初に至るまでを述歴して訖(いた)る、百三十篇。」
 これの中段以下に「天下の放失せし旧聞を罔羅(もうら)し、王迹(おうへん)の興(おこ)る所、始を原(たづ)ね終りを察し、盛を見(あら)はし衰を観、之を行事に論考す」とあるのは、現代訳では「わたしは天下の散らばり、すてられてあった旧き伝聞をもれなくあつめ、王者のあと興ったところについては、始めをたずね終わりを見たし、衰える様までを観察した」となるであろう。ここに彼が述べているのは、何がいつどのようであったのかを述べるのは、それらのことをまとめて記す者自身が、主体的に進めていくことなのであった。この司馬遷の凛(りん)とした姿勢は、「黄老思想をうけながら、天官の意識から生まれた思想であり、『春秋』の意図をこえるものである」(藤田勝久「司馬遷とその時代」東京大学出版会、2001)ともされているところであり、当時の支配的な思想潮流であったであろう儒教(孔子が提唱)基づくものではなく、今日の私たちにも通じる、事実をありのままに論述しようとする姿勢にも通じるものであったろう。

(続く)

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