♦️548『自然と人間の歴史・世界篇』戦後の東南アジア(フィリピン)

2017-11-17 22:49:51 | Weblog

548『自然と人間の歴史・世界篇』戦後の東南アジア(フィリピン)

 フィリピン共和国の国語であるフィリピノ語は、タガログ語を基本にし、スペイン語や英語などから借用語を採り入れています。なお、タガログ語はタガログ人の話していた言語です。
19世紀末、スペインとアメリカがフィリピンの領有を巡って衝突する。村上堅太郎氏の論考には、こうある。
 「1898年キューバの反乱を援助するこによってアメリカ合衆国はスペインと戦うに至った。戦闘は容易にアメリカの勝利に帰し、キューバの独立とフィリピン・グァムの米国領有が講和会議で定められた。フイリピンには英仏露等が野心を持っていたが、一方フィリピン内部にはアギナルド等の民族的独立運動があり、アメリカはこれと提携してスペインを破ったのであった。しかし国際的に孤立しつつあったイギリスはむしろドイツに対抗するためにアメリカのフィリピン併合を支持するに至り、ついにフィリピンはアメリカに帰属することとなった。この後に続いたアギナルドの反乱は1902年鎮定された。」
(村上堅太郎「新訂 西洋史概要」秀英出版、1956、161)
 1935年 独立準備政府(コモンウェルス)が発足しました。1942年、日本軍がフィリピン国土を占領し、軍政を開始しました。フイリピンの独立にいたる経緯についても中野広策氏の論考に、こうある。
 「フィリピンでは民族資本の形成を背景として1896年に独立運動が高揚したのであったが、1898年のアメリカ・スペイン戦争によるアメリカの勝利によって挫折した。その後、フィリピンはアメリカの植民地政策にもとづいて支配されるにいたった。アメリカの植民地政策は、「政治的後退、経済的前進」という形で特徴づけられているが、この線に沿って1916年のジョーンズ法で将来の独立が約束され、1934年のタイディングス・マクダフィ法で1946年7月4日が独立予定日と定められた。
 かくして、フィリピンの場合は、アメリカ帝国主義との力関係からして政治的代償の内容は確定されていたのであるが、それが日本帝国主義との闘争の代償として与えられるという形をとったのである。」中野広策「新興独立国の経済危機と国際関係」:大内兵衛・向坂逸郎監修「現代の世界経済と国際関係」河出書房新社、1971に所収。
 そして迎えた1946年7月4日、フィリピン共和国が樹立されました。

(続く)

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