(280)『自然と人間の歴史・日本篇』戦後の民衆文化の出発(文学1)

2017-08-09 10:48:06 | Weblog
(280)『自然と人間の歴史・日本篇』戦後の民衆文化の出発(文学1)

 大岡昇平(1909~1988)は、東京市牛込区(現在の新宿区)に生まれた。少年期から文学に傾倒していた。1931年(昭和6年)、この年満州事変勃発したり、それまで株式仲買人をしていた父が株価暴落で破産したりであったが、大岡は22歳で京都帝国大学に在学していた。その翌年大学を卒業して、さらに翌年には国民新聞社に入社する。1938年には帝国酸素に入社する。その後結婚をし、子供をもうける。それから川崎重工業に移るのだが、1944年になると軍に召集されて、南方の戦線へとやられる。1945年の敗戦の年には、マラリアに罹った身で戦闘参加中に昏倒し、米軍に発見され俘虜(ふりょ)となる。戦後は、それまで鬱屈していた気持ちを吐き出すように、『俘虜記』、『野火』など、戦時下をテーマとした小説を発表していく。
 『野火』の一節には、こうある。
 「この田舎にも朝夕配られて来る新聞紙の報道は、私の最も欲しないこと、つまり戦争をさせようとしているらしい。現代の戦争を操る少数の紳士諸君は、それが利益なのだから別として、再び彼等に欺されたいらしい人達を私は理解できない。いくら草も山蛭も食べていたとはいえ、そういう意味で、私の体がもっていたのは、塩のためであった。雨の山野を彷徨いながら、私が「生きる」と主張出来たのは、その2合ばかりの塩を、注意深く節しながら、嘗めて来たからである。その時妙なことが起こった。剣を持った私の右の手首を、左の手が握ったのである。この奇妙な運動は、以来私の左手の習慣と化している。」
 1950年代からの大岡は、『武蔵野夫人』や『黒髪』といった、男女の葛藤を追った作品も著すようになっていく。淡々とした文章にして鋭利な切れ味で、彼の考える生身の人間に肉薄しようとしたのであろうか。また、文学者にしては珍しく、社会に対して自分の戦争体験を下地にした意見を述べていた。例えば、随筆『二極対立の時代を生き続けたいたらわしさ』中では、裕仁天皇(ひろひとてんのう)を評して、「二極対立の終焉が見えかかったところで、その一瞬前に昭和が終焉を迎えようとしている。裕仁氏はやはり運が悪いおいたわしい天皇だと言わざるをえない」という。さらに締めくくりの部分では、「一方、若い人びとの間には天皇や天皇家なんかどうでもいいじゃないか、というアッケラカンな態度も強まっているという。これも、また問題だ」と若者の天皇制への意識を覗ったものであろうか。その上で彼は、「これまでの理論ではどうにも説明しにくかった、天皇をはじめとする権威にひれふす習性から国民が脱け出しつつあるのならいいが、一転して何にでも盲従する可能性を持っているとすると、あぶない」と、やや込み入った若者批評も試みているところだ。
 野間宏(のまひろし、)は、日本の小説家にしては珍しく、重厚感のある、粘っこい文体で、短編から長編までをこなすことのできた作家として、広く知られる。その彼が、最初に手掛けた長編小説が「真空地帯」である。これは、1952年、朝鮮戦争の最中に刊行された。作品に描かれたのは1944年(昭和19年)、戦争末期の大阪のとある陸軍部隊である。戦地はないのだが、軍隊に行っていることに間違いはない。兵隊たちが生活する場である内務班に光を当てている点で、類他に例を知らない。その過酷な初年兵教育の実体を精細に描き出して、日本の軍隊の内幕に迫っている。
いうまでもなく、兵営の中には三年兵がいれば、二年兵、初年兵もいた。年次の古いものは下年次の兵に対して上に立つ。絶対的な権威を持つのは上官だが、同等兵の中でも古参の者がそうでない者に、教育の名のもとに、罵声を浴びせたり、殴ったり、蹴ったり、服従を強要する。例えば、柱にのぼって「ミーン、ミーン」と言えという理不尽に対しても、多くの者が従うしかないと考えていたらしい。
 そんな兵営に、木谷上等兵は2年の刑を終え原隊に戻ってきた。なぜ自分が無実の罪に問われたか、誰が自分を陸軍刑務所に突き落したのか。これを探るうちに、軍隊というものの暗部にぶち当たるのだった。わけても上官達は、それを暴かれると困るので、木谷を今度は前線にやってしまおうということで、圧力をかけ、罠へと追い込んでいく。そのやり方は、実に巧妙である。この作品は、彼は軍隊機構の末端である兵営の緻密な描写を通して、日本軍国主義を批判した。反面、軍隊内の状況を単純化して描いているのではないかという批判も提出されているところだが、今なお多くの読者の興味を惹きつけている戦争小説であることに異論はない。
 井伏鱒二(いぶせますじ、1898~1993)は、中学校の国語の教科書によく出てくる『山椒魚』(さんしょううお)など、観察眼の鋭い作家である。その彼が今も世の中に影響を与えつづけている。小説というよりは細密な研究に基づく研究作品というべきか、その名を『黒い雨』(1965年)という。作品のモデルとなったのは、重松静馬(しげまついずま)の体験であって、この人物の手記をはじめとする3000点以上の資料から集大成したとつたわる。原爆投下の時の、主人公の心模様が伝わってくる部分には、こうある。
 「八月六日
 僕は朝の出勤で、いつものとおり可部行きの電車に乗るために横川駅の構内に入った。僕が乗降台に飛び乗ると同じ乗降台にに立っている高梁紡績刷子工場の女主人が言った。
「閑間さん、こんなところでなんですけれど、せんだってお願いしてあった書類に、ご印
判をいただきに・・・・・」
 そのとき、発車寸前の電車の左側三メートルくらいのところに目もくらむほど強烈な光の球が見えた。同時に、真暗闇になってなにも見えなくなった。瞬間に黒い幕かなにかに包み込まれたようてであった。
 「出ろ出ろ」「退け退け」「降りろ」「痛い」「きゃあ」という叫び声、怒鳴るような声、悲鳴。それとともに、どっと車内から乗客が押し出してきた。僕は乗降台からプラットフォームと反対側の線路上に押し飛ばされ、だれか女らしい柔らかい体の上に被さった。僕の上にも重たい人体が被さった。右側にも左側にも人が重なった。
 「おおい、止せ止せ」と僕が叫ぶのと、僕の頭に頭を接している人が「止めれ止めれ、こら」と僕の耳元で叫ぶのが同時であった。喚き声より悲鳴のほうが圧倒的になっていた。 僕は目を閉じて人波の間にはさまれながら、一歩、二歩、三歩くらい進んで、また固いものに突き当たった。柱だとわかったので夢中で抱きついたが、揉(も)みくたにされた。左に押し返され、右に押し返され、何度となく柱からもぎ取られそうになった。肩がちぎれるほど痛かった。
 賢明にしがみついていると、ふとあたりが静かになったので、おそるおそる目をあけてみた。プラットフォームには人が一人もいなかった。今まであれほどの騒ぎでありながら、構内には駅員の影ひとつ見つからない。おそらく、柱にしがみついて相当長く目をつぶっていたらしい。
 横川駅の東側の横川神社本殿は突き立つ柱のほかなにもなくなっていた。拝殿はすっかり消えて、のっぺらぼうの土壇(どたん)であった。」
 ここにつまみ出されているのは、日常生活と、この突如として出現した、なにが何だかわからない日常とは異質の世界とのコントライトであって、これも忘れられてはならない、一つの原爆体験なのであろうか。
 思うに、司馬遼太郎は、日本人作家としては、大いなる国際的な視野を持っていた部類に入る人であり、そういうことだからむしろ経世家として知られるのではないか。その彼にして、軍隊というものに向かう時には、自身の経験に根ざしてか、なかなかに手厳しい。彼が後代に残した評論ないし述懐の為すから、ここに幾つかを紹介しておこう。
 「軍隊というものは、本来、つまり本質としても機能として、自国の住民を守るものではない、ということである。(中略)軍隊が守ろうとするものは、抽象的な国家もしくはキリスト教のためといったより崇高なものであって、具体的な国民ではない。」(『沖縄・先島への道、街道をゆく6』朝日新聞社)
 「(中略)戦争遂行という至上目的もしくは至高思想が全面に出てくると、むしろ日本人を殺すということが論理的に正しくなるのである。(中略)沖縄戦において県民が軍隊に虐殺されたというのも、よくいわれるようにあれが沖縄における特殊状況だったとどうにもおもえないのである。」(『歴史と視点ー私の雑記帖』新潮文庫)
 「連隊のある将校が、この人に質問した。「われわれの連隊は、敵が上陸すると同時に
南下して敵を水際で撃滅する任務をもっているが、しかし、敵上陸とともに、東京都の避難民が荷車に家財を積んで北上してくるであろうから、当然、街道の交通混雑が予想される。こういう場合、わが八十輛の中戦車は戦場到着までに立ち往生してしまう。どうすればよいか」高級な戦術論ではなく、ごく常識的な質問である。だから大本営少佐も、ごくあたりまえな表情で答えた。「轢き殺してゆく」」(『歴史の中の日本』中公文庫)
 この3番目の一文の持つ意味には、極めて重いものがあるだろう。なぜなら、この時「大本営」から来たある将校の口から直接に声が発せられ、しかもそれを聞いた中に後に「作家」ないし「評論家」という容易ならぬ、そして精神を集中させて記憶することのできる人物がいた。受け手に取っては、それが「聞き捨てならぬ」ということであったのか、はたまた「仕方のない」ことであったのかは、本人がそれ以上の言及を避けているようなので、わからない。とはいえ、この司馬の発言を、「彼の論評には誤りが多い」もしくは「戦後に当時の関係者にきいてまわったところ、そんなことは知らないと答えていた」とかいうことで、直ちに反古(ほご)にしてしまうことは、歴史の検証に堪えうるところではあるまい。「当時そんなことはなかった」ということでこれに反論する者は、その当人の側も語り手と同様レベルの的確さとともに、ひろく国民に向けてのメッセージがそれなりに必要とされる、と考えられるからである。
 原民喜(はらたみき、1905~1951)は、広島の生れ。慶応義塾大学英文科を卒業し、英語教師などのかたわら文学活動をつづける。28歳で結婚。しかし、1944年に妻が病死する。翌1945年に疎開のため広島の実家に帰郷していたところ、被爆。1947年に、原爆投下による被害を描いた『夏の花』を「三田文学」に発表した。生原稿のタイトルは『原子爆弾』であったのだが、GHQによる検閲を恐れて、被害状況の描写を削除するとともに、題名も書き換えた。その後どうしたことか、1951年に中央線吉祥寺・ 西荻窪間の鉄路に身を横たえ自殺した。どこか寂しげな、きまじめな性格して、語り尽くせない事を沢山に抱えての戦後人生であったのかもしれない。
 「私は厠(かわや)にいたため一命を拾った。八月六日の朝、私は八時頃床を離れた。前の晩二回も空襲警報が出、何事もなかったので、夜明前には服を全部脱いで、久し振りに寝間着に着替えて睡(ねむ)った。それで、起き出した時もパンツ一つであった。妹はこの姿をみると、朝寝したことをぶつぶつ難じていたが、私は黙って便所へ這入(はい)った。
 それから何秒後のことかはっきりしないが、突然、私の頭上に一撃が加えられ、眼の前に暗闇(くらやみ)がすべり墜(お)ちた。私は思わずうわあと喚(わめ)き、頭に手をやって立上った。嵐(あらし)のようなものの墜落する音のほかは真暗でなにもわからない。手探りで扉を開けると、縁側があった。その時まで、私はうわあという自分の声を、ざあーというもの音の中にはっきり耳にきき、眼が見えないので悶(もだ)えていた。しかし、縁側に出ると、間もなく薄らあかりの中に破壊された家屋が浮び出し、気持もはっきりして来た。
 それはひどく厭(いや)な夢のなかの出来事に似ていた。最初、私の頭に一撃が加えられ眼が見えなくなった時、私は自分が斃(たお)れてはいないことを知った。それから、ひどく面倒なことになったと思い腹立たしかった。そして、うわあと叫んでいる自分の声が何だか別人の声のように耳にきこえた。しかし、あたりの様子が朧(おぼろ)ながら目に見えだして来ると、今度は惨劇の舞台の中に立っているような気持であった。たしか、こういう光景は映画などで見たことがある。濛々(もうもう)と煙る砂塵(さじん)のむこうに青い空間が見え、つづいてその空間の数が増えた。壁の脱落した処(ところ)や、思いがけない方向から明りが射(さ)して来る。畳の飛散った坐板の上をそろそろ歩いて行くと、向うから凄(す)さまじい勢で妹が駈(か)けつけて来た。
 「やられなかった、やられなかったの、大丈夫」と妹は叫び、「眼から血が出ている、早く洗いなさい」と台所の流しに水道が出ていることを教えてくれた。」(原民喜『夏の花』)
 場面は家の外へと移って、主人公も避難していく時に目にした光景に、こうある。
 「川岸に出る藪のところで、私は学徒の一塊と出逢った。工場から逃げ出した彼女達は一ように軽い負傷をしていたが、いま眼の前に出現した出来事の新鮮さに戦(おのの)きながら、却(かえ)って元気そうに喋(しゃべ)り合っていた。そこへ長兄の姿が現れた。シャツ一枚で、片手にビール瓶を持ち、まず異状なさそうであった。向岸も見渡すかぎり建物は崩れ、電柱の残っているほか、もう火の手が廻っていた。私は狭い川岸の径へ腰を下ろすと、しかし、もう大丈夫だという気持がした。長い間脅かされていたものが、遂(つい)に来たるべきものが、来たのだった。さばさばした気持で、私は自分が生きながらえていることを顧みた。かねて、二つに一つは助からないかもしれないと思っていたのだが、今、ふと己(おのれ)が生きていることと、その意味が、はっと私を弾(はじ)いた。
 このことを書きのこさねばならない、と、私は心に呟いた。けれども、その時はまだ、私はこの空襲の真相を殆(ほとん)ど知ってはいなかったのである。
 対岸の火事が勢を増して来た。こちら側まで火照(ほて)りが反射して来るので、満潮の川水に座蒲団を浸しては頭にかむる。そのうち、誰かが「空襲」と叫ぶ。「白いものを着たものは木蔭へ隠れよ」という声に、皆はぞろぞろ藪の奥へ匐(は)って行く。陽は燦々(さんさん)と降り灑(そそ)ぎ藪の向うも、どうやら火が燃えている様子だ。暫く息を殺していたが、何事もなさそうなので、また川の方へ出て来ると、向岸の火事は更に衰えていない。熱風が頭上を走り、黒煙が川の中ほどまで煽(あお)られて来る。その時、急に頭上の空が暗黒と化したかと思うと、沛然(はいぜん)として大粒の雨が落ちて来た。雨はあたりの火照りを稍々(やや)鎮(しず)めてくれたが、暫くすると、またからりと晴れた天気にもどった。対岸の火事はまだつづいていた。今、こちらの岸には長兄と妹とそれから近所の見知った顔が二つ三つ見受けられたが、みんなは寄り集って、てんでに今朝の出来事を語り合うのであった。」(原民喜『夏の花』)

(続く)

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