(253)『自然と人間の歴史・日本篇』敗戦への道(全国各地への空襲)

2017-08-09 09:28:47 | Weblog
(253)『自然と人間の歴史・日本篇』敗戦への道(全国各地への空襲)

 1945年(昭和20年)に入ると、日本本土へのアメリカ軍の空襲が激しさを増してくる。この年の3月9日22時30分警戒警報が発令後、いったん解除される。翌10日の未明(0時15分、今度は空襲警報が発令される。それと同時に、約300機のアメリカ軍爆撃機B29が東京の下町地区に飛来した。この大編隊は、低空に侵入しては焼夷弾による無差別爆撃を繰り返した。その焼夷弾は、わざわざ日本家屋に火災を起こさせるため特別に開発したと言われ、もしそうなら初めから一般市民をねらったことになる。爆弾による被害は向島区、本所区(現在の墨田区)を中心に下町全域に広がり、推定10万人もの犠牲者が出た。寺島町(でらじままち、現在の東京都墨田区向島)に家族とともに住んでいた岡崎篤(おかざきあつ、1931年生まれ)さんは、その時の模様を次のように述懐しておられる。
 「家の裏手にある小さな道を抜けて荒川を目指したのですが、まだ小さい妹を連れて歩くのに時間がかかりました。隣のおばあさんがおんぶしてくれたので、なんとかたどり着くことができました。荒川の対岸まで逃げた人もありましたけれど、私たちは川の手前(墨田区側)にとどまりました。そう、確か川を背後に立っていましたから。
 照明灯に照らされて、B29が私の真上に、大きくはっきりと見えました。みんなここに爆弾を落とされたら大変だと不安がっていましたが、爆弾は本所、深川の辺りで全部落としてしまったのでしょうか、私たちのいた荒川土手は通り過ぎていきました。(中略)
 荒川土手は周囲より少し高くなっていて、そこからはずっと遠くまで見晴らせました。町は一面の炎に包まれ、火が火を呼び、風を呼んで渦を巻いてしました。それを見た私は「ああ、どうなるんだろう」と思うのと同時に、不謹慎かもしれないですけれど、まっ赤な空がきれいだと思いました。実際に炎に囲まれたなら怖かったでしょうが、幸い火は土手までは来ませんでした。それに無我夢中だったからでしょう、そのときは不思議と恐怖は感じませんでした。
 その夜は土手で過ごし、翌朝、友達から「家がどうなっているか見よう」と誘われて家に戻ってみました。辺りにはまだ煙が出ていて目が渋くて「涙がでちゃうわね」と言いながら歩いたのを覚えています。私の家があったところはめちゃくちゃに焼けていて、一面の焼け野原でした。でも家が焼けたというのに、私は戦争だから仕方がないと思ったのですね。(中略)
 防空壕に入っていた人は、ほとんどが火に囲まれて逃げ出せず、中で窒息したり焼け死んだりしました。あるお母さんが子どもの手を引いて逃げてきて、「忘れ物をしたからここで動かず待っているように」と言って引き返したのですが、その間に子どもが防空壕に入ってしまったんですね。その子はそこで亡くなったそうです。病院などちゃんとした防空壕を作っていたところでもたくさん亡くなったと聞きました。」(岡崎篤「紅い空の下でー東京大空襲を逃れて」:福音館書店刊『母の友』特集、「それぞれの戦争。あの日を生きた女性たち」2013年8月号より引用させていただきました) 
 では、地方の空襲はどうであったのだろうか、ここでは、1945年6月の岡山大空襲を伝える、当時、教師であった片山嘉女子の回想を紹介させていただく。
 「昭和二〇年六月二十九日午前二時頃の大空襲で岡山はひとなめであった。当時私は玉井宮の近くに住んでいた。玉井宮の上空よりB29の襲来、次から次へとくりひろげられた爆撃、住民はおののきながら大ぶとんを頭からかぶり、右往左往し逃げ続けたものだ。逃げ遅れた人達は地蔵川のほとりに、ぬれぶとんをかぶって身を守った。東山の電車筋あたりから南へ南へと火は勢を加えて燃えさかる。家主の奥さんと身のまわり品を持ち出し、おふとんをぬらして持ち出したものにかけ、二人でバケツで水を運び火勢を少しでも弱めようと努力しつづける。然し火勢は少しも劣えを見せず煙が目に入り思うような効果は上がらず、懸命な消火もなく隣家がやけおちやがてわが家も、見る見るうちに焼け落ちた。灰と化していくわが家を家主さんと共に放心して眺めていた。あたりには誰一人姿はなく、付属小学校側はまだ燃え続けている。やがて火力が弱まった頃にやっとここにある自分に気がついた」(片山嘉女子「戦前戦中戦後の教師として」:岡山県教職員組合「己無き日々ー戦争を知らないあなたよ」1982に所収、当時の筆者は、岡山市立勲小学校に勤務)。
同じく教師をしていた小島幸枝は、焼け出された民衆が身を危険にさらしてまでも、大挙して旭川に向かったことを、次のような手記に綴っている。
「・・・・・午前二時、燈火管制の薄い光りの中で用を足しに起きた私の耳に、低いうなるような音が響きました。南の空が赤いのです。とっさに私は「空襲だ。空襲だ。」と叫びました。B29の来襲です。
 私は二歳の次男を背負い五ケ月の身重に、モンペをはき、用意の袋を持ち、夏蒲団を被り逃げました。夫と共に防空壕に入りましたが、危険と云う隣り組の班長の報せで、旭川に出ました。河原の窪地の水につかって避難しました。空から、ばらばらと間断なく落下する火の雨、油脂焼夷弾は、水面に落ちても、燃え乍ら流れて行きます。次々に爆音を立てて飛来するB29は、市の中心部を焼き、炎々とあがる火の海と化しました。蒲団から頭を出して、天満屋が焼け落ちるのを見ているうちに、鳥城が火を吹いて燃え出しました。
 河原は、避難の民衆でごった返しています。突然後方に悲鳴があがりました。直撃弾で全身炎に包まれた人が見えました。私は深く蒲団を被り祈りました。火に追われて、河へ河へと旭川は人の渦です。降りかかってくる火の弾を避けて、泣き叫び、阿鼻叫喚の地獄です。
 夜が明けて鼠色の雨が降り出しましたが火は消えません。ぶすぶすと燻り続けます。
 ずぶ濡れの身体をひきずり家の方向に歩を運びました。家がある、焼けないで、私は夫と家を捨て、焼けた街に出て身内の安否を確かめました。妹夫婦が居ません。この日以来二人は消え去ってしましいました。街には多くの焼死体が残っています。銭湯の湯舟に、各戸にある防火用水桶に、火に追われて、飛び込んだ水の中で焼け焦げていました。
 二、三日、探してもいない妹夫婦一週間も死体探しを続け、国清寺、正覚寺の境内の収容所ものぞきました。引き取り手のない焼死体が累々と集り、怖い物への無感覚でひたすら死体探しをしました。
 学校の教え子も死にました。防空壕で、道路で、家の中で、多くの子が死にました。・・・・・」(同著、小島幸枝「戦争を知らないあなたに:岡山県教職員組合「己無き日々ー戦争を知らないあなたよ」1982に所収)
 このような我が国内外において無気力化しつつある日本の情勢をじっとみていたであろう、昭和天皇は、アメリカ側が傍受していた7月18日の日本側公電によると、遅ればせながら戦争終結を望んでいることになっていた。これからすると、彼は、もはやこの戦争を終結に導かねばならないことを悟っており、8月14日、周囲の戦争推進勢力の大勢を押し切る形で、ポツダム宣言を受諾することに決めた。

(続く)

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