(251)『自然と人間の歴史・日本篇』敗戦への道(沖縄、広島そして長崎への爆弾投下1)

2017-08-09 09:25:03 | Weblog
(251)『自然と人間の歴史・日本篇』敗戦への道(沖縄、広島そして長崎への爆弾投下1)

 1945年(昭和20年)4月に入り、沖縄にアメリカ軍が上陸した。その夏、広島への原子爆弾投下で12万人強、続いての長崎への同爆弾の投下で7万人強が死者が出た、ともいわれている。原爆はまた、多くの放射能被害者をもたらした。
 「炎天下筏(いかだ)となりて屍(しかばね)往く」(公募で俳句を集めた『句集、広島』から、作者は伊東ひろ江)
 この原爆投下について、アメリカが対日本戦を勝利に導く最終的な切り札とはなっていなかったことがわかっている。というのも、ローズヴェルト(フランクリン・D・ローズヴェルト)が大統領に在任の間は、連合国はその一員のソ連に日本への宣戦布告を要請していた節がある。ところが、ナチスが崩壊し、日本の敗北も身近な視野に入ってきた時点で、戦争後のことを考えた時、アメリカはソ連の力を強く意識するようになっていた。脳溢血で急死したローズヴェルトの後を継いだトルーマン大統領は、「8月15日までにソ連が対日参戦する。そうしたら日本は敗北する」とみていた。それだから、アメリカはともかく日本をスターリンの率いるソ連が手をつける前に、降伏させたかった。つまり、ソ連を自陣営の仲間に引き入れての日本占領ではなく、アメリカ単独の力で一日でも早く日本を屈服させたかった。
 日本では、1945年(昭和20年)2月14日、首相経験者近衛文麿が昭和天皇に拝謁し、以下のような書出しの上奏文を提出したことになっている。
 「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候。以下此の前提の下に申述候。敗戦は我が国体の瑕瑾たるべきも、英米の與論は今日までの所国体の変革とまでは進み居らず(勿論一部には過激論あり、又将来如何に変化するやは測知し難し)随て敗戦だけならば国体上はさまで憂うる要なしと存候。国体の護持の建前より最も憂うるべきは敗戦よりも敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命に御座候。つらつら思うに我が国内外の情勢は今や共産革命に向って急速度に進行しつつありと存候。」
 ここには、戦禍に苦しむ国民への配慮などは、微塵もない、あるのはただ旧態依然の「国体護持」なのであった。この上奏に接して、昭和天皇は少し挽回してからでないと、和平は難しい旨の返答をしたことになっている。
 おりしも、広田弘毅元首相は、駐日ソ連大使に同年6月はじめに会っていた。最近の報道では、この時の彼はソ連によるとりなしを期待して、「一刻も早い降伏の意思を伝えています」(アメリカン大学教授ピーター・カズニックさんへのインタビュー記事、朝日新聞2015年6月2日付けに掲載のものから引用)とのこと。アメリカとしては、ソ連が日本の戦後に介入してくるような事態は避けなければならない。そこで、急遽持ち出してきたのが、日本の8つの都市に次々と開発されたばかりの原子爆弾を投下していくという最終攻撃であったのである。これによると、原爆を投下しないと、通常兵器での日本本土への上陸は被害が大きく、多くの米兵の命が失われるので、やむなく原爆を投下したという、戦後のアメリカ側の表向きの説明は、つじつまが合わない。当時の日本敗戦の真相は、すでに米ソによる戦後の冷戦の始まりを告げる、新たな国際情勢の中できめられたことが、アメリカ側からの情報で明らかにされつつある訳だ。
 おそらくは、日本の政府も軍部も、そんな国際情勢の激しい変化には、もはやついていけなかったのではないか。それでも彼らは、戦争を最終的にやめる決断を政府に促すことなく、自分たちが敗戦後もある程度の力を保ちうる「負け方」にこだわっていた。無条件降伏に至る道を進んでいることは、もはや明らかであった。日本政府はもうやる気がないにも関わらず、軍部だけが全く勝ち目のない本土最終決戦を叫び続けるという、一種の「無政府状態」へと流れつつあったのではないか。おりしも、アメリカ軍は九州上陸作戦も俎上に載せようと、その意思統一にとりかかりつつあったとされる。

(続く)

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