(274)『自然と人間の歴史・日本篇』第二の黒船(電算機)

2017-08-09 10:35:30 | Weblog
(274)『自然と人間の歴史・日本篇』第二の黒船(電算機)

 戦後復興が成ったのもつかの間、日本経済は海外への門口を拡大するという、いわゆる「第二の黒船」に直面することになっていくのであるが、丸尾(筆者)はその意義をこうまとめている。
 「1960年に池田内閣の「所得倍増計画」が発表されましたが、そこにはばら色の生活が描かれていました。しかし、うちでのこずちは実在しません。これを実現するには官民挙げての血と汗の合理化が必要となったのです。
 1961年の国際金融は、1ドルが360円、4マルク、1/2.8ポンドとなっていて、この固定相場を維持するために「世界共通のおカネ」である金の一定量、すなわち1オンス=31グラムがドルとつながっていました。1ドル=1/35オンスということは、1オンス=35ドル、1オンス=12600円、1オンス=140マルク、1オンス=12.5ポンドという具合です。
 第二次大戦後には世界中の金の約75%もの保有をしていたのですね。アメリカはこのメニューを各国の政府と中央銀行に提示して、いつでもドルと金との交換に応じることになっていました。これで安心してドルをもっていられる。一方のアメリカはドルと金との交換義務があるので、無制限なドル貨幣の垂れ流しは避けられることになって、アメリカはこの金の上にあぐらをかいて、それほ使って世界経済を牛耳っていたのです。
 そして日本の経営者は、この決意を背景に、当時「第二の黒船」と言われた貿易自由化に踏み切ります。関税と貿易に関する一般協定十一条国、1963年、国際通貨基金八条国への移行と経済協力機構への加盟は、国際経済の檜舞台にに歩みだそうとする日本の経営者たちにとっては、避けて通れない道であったといえましょう。  
 これを電算機業界の歩みでみると、一方で輸入障壁を作って対外対応に努めつつ、その間に業界再編(7社から3系列へ)で資本力と技術力とを集中して国産の体力を強める、という作戦でした。1960年、国産メーカー7社が、IBMと基本特許の仕様契約を締結しました。1961年、日立製作所が米RCAと技術提携する。日本IBMとしての小型機国内生産を開始しました。1962年、日本電気、米ハネウェル社と技術提携しました。1963年、沖電気工業が米ユニパックと技術提携しました。1964年、東芝が米GE(ゼネラル・エレクトニックス)と技術提携しました。1970年、ソフトウエア産業振興協会が発足しました。1971年、富士通と日立製作所が技術提携し、IBM互換というアーキテクチャー(設計思想)は同じにするものの、製品は別々に作る。三菱電機と沖電気工業が技術提携。日本電気と東芝が技術提携しました。1972年、富士通が米アムダールに資本参加しました。1973年、富士通と松下グループがパナファコムを設立しました。1975年、電算機の資本完全自由化。電算機の輸入完全自由化しました。
1976年、ソフトウエア業の資本自由化を行いました。
 この時期の合理化というのは、復興期の断続的で個別的なものから系統的かつ全体的なものに脱皮していった時期に当たります。合理化は生産手段と労務管理を車の両輪として推進されてゆきます。基幹産業では世界銀行借款と輸入技術に依存しつつ設備の近代化が数次に渡って行われました。62年の石油輸入自由化と相俟って次々と臨海工業地帯が形成されていきました。

(続く)

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