『美作の野は晴れて』&『138億年の日本史』&『岡山(美作・備前・備中)の今昔』

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◎一七五の二『138億年の日本史』スペイン内戦

2017-06-17 22:48:16 | Weblog
一七五の二『138億年の日本史』スペイン内戦

 1923年9月、プリモ・デ・リベーラが軍事蜂起を起こし、政権を掌握すると戒厳令が敷かれ、憲法は停止となる。1876年からそれまで続いていた立憲君主制が崩壊し、軍事独裁政治の開始となる。1930年、経済危機の中で軍内部からも独裁者への批判が噴出、ベレンゲール将軍が政権を引き継ぐ。これに至る経緯はなかなかに複雑であった。ざっと示すと、その前年の8月、共和主義者たちが全国から北部のサン・セバスチャンに集まって、共和国樹立のための相談にとりかかる。首都のマドリッドでは、かれらによる革命委員会が結成される。
 1931年2月にベレンゲールが辞任を余儀なくされる。新政府は生き延びる道を見つけようと、国民の意思を問うことにし、1931年4月12日、地方(市町村議会)選挙に打って出る。農村部では、王党派が勝利を収める。一方、都市部では社会労働党など共和派が勝利する。返り咲きをねらっていたアルフォンス13世は亡命する。すると、人々は「共和国万歳」を叫んで、先の革命委員会は臨時政府に衣替えし、権力を握るに至る。これを「第二共和政」と呼ぶ。6月28日には、憲法制定議会選挙が実施され、社会労働党、急進社会党などが躍進する。新憲法が制定され、その第1条には「スペインはあらゆる種類の労働者の共和国である」とあった。この憲法下で、10月にはアルカラ・サモーラが大統領職に、アサーニヤが首相にそれぞれ就任する。
 1932年8月、サンフルホ将軍らによるクーデターが勃発するも、軍の一部の蜂起であったがために、政府の素早い措置により失敗に終わる。9月には、農地改革法が施行される。これによって「収容された土地は、南部を中心とする大土地所有(ラティフンディオ)のみで、手続きの煩雑さや資金不足も手伝って、実際に収容され農民に分配された土地は予定の20%ほどに過ぎず、根本的な改革にはほど遠かった」(立石博高・席哲行・中川功・中塚次郎『スペインの歴史』昭和堂、1998)といわれる。農地改革が徹底しないことで農民に不満が残り、新政府を支える労農同盟に不安が生まれたのは否めない。
 同月、カタルーニャ憲章が制定される。1933年1月、カサス・ビエハス事件が発生する。これは、CNT(1910年に結成された全国労働連合でアナーキスト(無政府主義)的色彩が強い)系の労働者や農民による抗議であり、これを弾圧したアサーニャの権威は失墜する。3月には、政府の反カトリック改革に反対してスペイン独立右翼連合(CEDA)が結成される。アサーニャは辞任を余儀なくされ、1933年11月に総選挙が実施された。共和国政府の改革に不満な浮動票がブルジョアを中心とする右派勢力に流れた。右派による政権が生まれたことで、これからを「暗黒の二年間」という。1934年10月には、反ファシスト政府の樹立を目指す民衆の立ち上がりがあった。これを「アストゥリアスの蜂起」という。スペイン人民にとって、生きることは戦うことになっていたのであろう。かれらは「人民戦線協定」を締結する。1936年2月16日、スペインでは総選挙の結果、共和主義者、社会党、共産党の協力による人民戦線派が右翼の国民戦線派に対して勝利する。19日、共和主義者が中心となって、再びアサーニャを首班とする人民戦線政府が成立する。
 かくしてこれは、スペイン人民が集う政府としては、スペインの歴史始まって以来の出来事であった。人民戦線政府は、反ファシスト政府蜂起(ほうき)における政治犯の釈放や農地改革、カトリック教会の特権の縮小などの課題を表明する。一方、大資本・地主・教会を基盤とする右翼諸勢力は、軍部を中心としてひそかに政府打倒の計画を進めた。1936年7月17日のモロッコで、駐屯軍の蜂起があった。この事件を機に、翌18日にはフランコ将軍をはじめとする軍部がスペイン各地で反乱を起こした、フランコの指揮下にモロッコに拠点を確保した反乱軍は、ドイツ、イタリアの援助を得て本土に上陸し、以後長期的な内戦になった。ここに内戦が勃発したのである。
 ここに至り人民戦線政府は決意を固める。武器を労働者に分配することを要求し、首都マドリードやバルセロナでは、労働者や市民が武器庫や銃砲店を襲って武器を手に入れ、反乱軍と戦った。1936年7月19日、ヒラールが新たに共和諸派による政府を組織し、労働者団体を武装することを決定した。軍部の蜂起は、同月20日までにはスペイン本土ではカディスとセビーリャを除いてほとんど鎮圧された。もう一方のフランコ将軍は、ファシストの国となっていたドイツとイタリアに援助を求め、両国の飛行機がモロッコへ送られた。この両国の介入はその規模を増していく。内戦は、ここに国際的な対立の構図を巻き込んだ形となったのだ。1936年年8月、モロッコから本土に上陸したフランコ軍は、北上してマドリードを目ざし、また北方のレオン、ガリシア地方を制圧し、同年9月末マドリードをほぼ半円形に囲んだ。ここにスペイン本土は共和国政府に残された地域と、反乱軍(ナショナリストと自称)に占領された
 1936年9月4日、ヒラール内閣は退陣して、労働者に信望のある社会党左派のラルゴ・カバリェロが内閣を組織した。カバリェロ内閣は社会党、共産党からも入閣させ、さらに11月にはアナキストを入閣させた。共産党員がブルジョアジーとの連立内閣に入り、さらにアナキストが政府機関に参加しないという原則を破って入閣した。同じ9月には、ロンドンに不干渉委員会を開設する。10月、バスク自由憲章が制定される。その後もドイツ、イタリアの武力介入は続いてゆく。ソ連はこれに対抗して、1936年10月末、共和国側に戦車や飛行機、大砲などを送った。ソ連から送られた人数は約2千人、多くは技術的な部門で活動した。なお、メキシコのカルデナス政権もスペイン共和国に対して武器を送った。アメリカは、スペイン内戦に対しては中立の態度をとっていたが、石油資本はフランコに対する石油の供給を続けていた。
 ここに至り、共和国側内部の事情は、内戦前と比べて著しく変化した。その中でも、労働者が部分的に権力を掌握したことが重要である。ヒラールを中心とする共和国政府は、自由主義的ブルジョアジーからなり、旧来の国家機構を把握している。社会党、共産党は、これを閣外から支持していた。軍部のなかにも合法的な共和国政府に忠誠を誓う勢力もあった。またカタルーニャでは、自治政府の大統領コンパニースは、アナキストを含む民兵委員会や経済評議会を設置して、労働者による軍事と経済の管理を認めていた。フランコは内戦の過程でナショナリスト側において指導的地位を獲得し、1936年10月、自ら「統領」と名のり、ファランヘ党からその大衆向けのイデオロギーを借用し、この党をテロ部隊として利用した。
 そして同月、フランコ軍はマドリードの郊外にまで迫る。11月6日、フランコ軍がついに総攻撃を開始した。ドイツとイタリアは、同11月、フランコ政権をスペインの正統政府として承認を与えた。人民戦線政府側では、国際義勇兵が、マドリードの戦場に姿を現した、勇敢な心には不可能の文字はないかのように。そんな中でも、この国際義勇兵を組織的にスペインに送り込むことに努めたのは、コミンテルン(第三インターナショナル、当時の共産主義者の国際組織)であった。政府軍と渾然一体となってファシスト側と戦うことになるこの義勇兵の数は、精々3万から4万位であったろうか。共和国政府はマドリードからバレンシアへ移転した。マドリードはその後2年半ほどもちこたえた。フランコ軍に対するドイツ・イタリアの武力援助とイギリス・フランスの不干渉政策という状況の下では、共和国側は圧倒的に不利であった。
 1937年に入り、内戦は最終段階の「マドリード防衛戦」に突入していく。スペイン内戦の特色として、さらに国際義勇兵の活躍があげられる。さて、スペイン内戦は、一面では中央集権に対する地域自治の闘争でもあった。内戦開始後まもなくバスク地方は自治政府をつくり、保守的なカトリック教徒も共和国を支持していた。2月、ハラマで激しい戦いがあった。1937年4月、制空権を掌握したドイツ空軍のコンドル兵団は、バスク地方の町ゲルニカを爆撃した。スペインの画家パプロ・ピカソは、このゲルニカへの非人道的な爆撃に抗議して、『ゲルニカ』を完成させた。以後、バスク地方を制圧したフランコ軍はバスクの自治を奪い、バスク語を禁止した。カトリック教徒も共和国を支持する限り厳しい弾圧にあった。
 同4月、政党統一令でファランヘ政府が成立する。5月には、バルセロナで五月事件が発生する。共和国の敗北内戦中フランコ側がともかく統一を保ちえたのに対して、共和国側は構成要素がしだいに分裂し始めた。スペイン共産党の勢力伸張は、同時に当時のスターリン的な政治指導の誤りをスペインにも持ち込むことになった。ソ連における「粛清」がスペインでも行われ、反フランコ勢力の内部に致命的な分裂を生じた。1937年5月のバルセロナにおける市街戦で、政府軍が敗北を喫す。共和国側は、以後カバリェロ内閣にかわったネグリン内閣となるが、もはや大勢を挽回できなかった。1937年11月、共和国政府はバレンシアに移転する。1938年1月、フランコはブルゴスに最初の内閣を樹立する。7月から11月にかけて、エブロ川で最後の大きな戦いが繰り広げられる。1939年1月バルセロナは陥落し、2月イギリスとフランスはやむなくフランコ政権を承認するに至る。そして迎えた3月、マドリードも陥落して、反乱軍が首都を占領するに至り、内戦はフランコを頭目とするファシスト側の勝利に帰した。

(続く)

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