(38)『自然と人間の歴史・日本篇』律令制の成立

2016-03-30 09:47:29 | Weblog
(38)『自然と人間の歴史・日本篇』律令制の成立

 689年(持統天皇3年、同天皇は天武天皇の皇后であった)、天武天皇の時から準備されていた「飛鳥浄御原令」(あすかきよみがはられい)が正式に制定・発布される。ここに飛鳥浄御原宮とあるのは、645年の難波(長柄豊崎)宮から667年の近江大津宮、それから672年の遷都で同宮となっていた。これを受けての690年(持統天皇4年)、最初の全国戸籍となる庚寅年籍(こういんねんじゃく)が作成される。これで当時の全国の人民を掌握し、かれらを日常普段に統治するための行政組織が定められる。
 さらに694年(持統天皇4年)には、飛鳥(あすか)の北方、東、そして西を三つの山(いわゆる「大和三山」)に囲まれた盆地に、「藤原京」(ふじわらきょう)(現在の奈良県橿原(かしはら)市)が造られ、遷都がなされる。新都は、それより前の690年から4年をかけて着工されていた。この国での最初の本格的な都城であった。遷都から10年後の704年に完成している。この藤原京は、中央に宮殿を持っていた。都の地理的構造は、中国の都城にならって条坊制と呼ばれる。これは、碁盤の目状に整然と街路が設けられ、これが街割りとなっている。いわゆる「唐風」である。夜、上空からの写真はもちろんある由もないが、現代の画家・平山郁夫の大作「高○(ひか)る藤原京」(縦166.2センチメートル、横363.0センチメートル)に古代の光り輝く区割りが再現されているのが、何故か懐かしく感じられる。
 それでは、飛鳥時代の身分制はどうなっていたのであろうか。これを覗うものとして、令制に於ける良賎制と、戸籍制度(こだいにほんのこせきせいど)があった。良賎制というのは、民を領民と賤民とに分けた。良民(良人)として、公民、雑色人があった。後者は、品部と雑戸に分かたれていた。また五色の賎としては、陵戸、官戸、公奴婢(官奴婢)、家人及び私奴婢の区別があった。かかる良賎制に基づいて、朝廷が律令による人民把握のためのに戸籍が撰定・編纂された。戸籍の主なものに天武天皇の時の庚午年籍(こうごのねんじゃく)や、持統天皇の時の庚寅年籍(こういんのねんじゃく)があげられる。いずれも、現存していないし、詳細な内容も伝わっていない。
 『日本書紀』巻第三十、「高天原広野姫(たかあまのはらひろのひめの)」にある、691年(持統天皇5年)の項の「三月壬申朔甲戌」以下の末尾に、領民と賤民の区別と人身売買に関する詔が紹介されている。
 「五年春正月癸酉朔、賜親王・諸臣・內新王・女王・內命婦等位。己卯、賜公卿飲食衣裳、優賜正廣肆百濟王餘禪廣・直大肆遠寶・良虞與南典、各有差。乙酉、増封、皇子高市二千戸通前三千戸、淨廣貳皇子穗積五百戸、淨大參皇子川嶋百戸通前五百戸、正廣參右大臣丹比嶋眞人三百戸通前五百戸、正廣肆百濟王禪廣百戸通前二百戸、直大壹布勢御主人朝臣與大伴御行宿禰八十戸通前三百戸、其餘増封各有差。丙戌、詔曰「直廣肆筑紫史益、拜筑紫大宰府典以來於今廿九年矣。以淸白忠誠、不敢怠惰。是故、賜食封五十戸・絁十五匹・綿廿五屯・布五十端・稻五千束。」戊子、天皇幸吉野宮。乙未、天皇至自吉野宮。
二月壬寅朔、天皇詔公卿等曰「卿等於天皇世作佛殿經藏・行月六齋、天皇時々遺大舍人問訊。朕世亦如之、故當勤心奉佛法也。」是日、授宮人位記。三月壬申朔甲戌、宴公卿於西廳。丙子、天皇觀公私馬於御苑。癸巳、詔曰「若有百姓弟爲兄見賣者、從良。若子爲父母見賣者、從賤。若准貸倍沒賤者、從良。其子雖配奴婢所生、亦皆從良。」
 この部分の書き下し文は、つぎの通りである。
 「持統五年・・・・・三月壬申(みずのえさる)朔・・・・・癸巳(みずのとみ。22日)若し百姓の弟、兄の為めに売らるる者有らば良(おおみたから)に従え。若し子、父母の為めに売らるる者は賎(やつこ)に従え。若し貸倍(かりもののこ)に准(いれ)られて、賎に没(い)れらば、良に従え。其の子奴婢に配(たぐ)えりと雖も、生める所は亦皆良に従え。」
 もし百姓が兄のために売られている場合は、解放して良民、つまり公民として扱う。父母によって売られている場合はそのまま賤、つまり奴隷に据え置きとする。さらに借金を返済できないことで賤、つまり奴隷になった者は解放して良民、つまり公民として扱う。賤、つまり奴隷の子供はすべて良民、つまり公民として扱うべきことになっている。
 持統天皇の跡を継いだのが文武天皇で、その治世の701年(大宝元年)、日本に中国の唐に習った本格的な政治を敷くべく、『大宝律令』が定められた。647年(大化3年)の正月の「改新の詔」において律令を定めることになっていたのを踏まえた措置であった。この律令は、新たに刑罰法令を加え、古代日本の律と令の根幹を網羅した初めての基本法だと言える。この法体系の中で、すべての土地は耕地として、国家の所有の建前であり、人民はその国家に従属する立場にあることとされた。「班田収授法」が制定され、口分田として判田収受される。一人一人に分け与えられた土地はその本人一代限りのものであり、世襲されるものではない。その土地毎に全国の戸籍、人民の土地利用などが定まる。これには、賦役や軍事に至る一連の人民の義務あれこれが組み入れられている。それらは、645年(大化元年)の大化改新の後直ぐには間に合わず、その本格的成立は701年の大宝律令を待たねばならなかった。その後の『令義解』は、同律令の解説書として編さんされた。その戸令、田令、賦役令及び軍防令について言うと、我が国の古代律令政治の基本が、こう伝えられる。
「(戸令)
 凡そ戸は五十戸を以て里と為せ。里毎に長一人を置け。
 凡そ計帳を造らむことは、年毎に・・・・・
 凡そ戸籍は六年に一たび造れ。
 凡そ戸籍は恒に五比を留めよ。其遠き者は次に依りて除け。(近江の大津宮の庚午の年の籍は除かざれ)
 (田令)
 凡そ田は長さ卅歩、広さ十二歩を段と為よ。十段を町と為よ。段の租稲二束二把、町の租稲廿二束。
 凡そ口分田を給はむこと、男に二段。女は三分の一を減ぜよ。五年以下には給はざれ。
 凡そ田は六年に一たび班へ。神田・寺田は此の限りに在らず。・・・・・
 凡そ諸国の公田は、皆国司郷土の估価に随ひて賃租せよ。
 (賦役令)
 凡そ調の絹・あしぎぬ・糸・綿・布は,並びに郷土の出す所に随え。
 凡そ正丁の歳役は十日。若し庸を取るべくんば、布二丈六尺。・・・・・
 凡そ令条の外の雑徭は、人毎に均しく使へ。総て六十日を過ぐることを得ざれ。
 軍防令
 凡そ兵士の上番せむは、京に向はむは一年、防に向はむは三年、行程を計へず。
 凡そ兵士の京に向ふをば、衛士と名づく。
 ・・・・・辺守るをば、防人と名づく。」
 ここ大要が述べられている新法制の骨子としては、公地公民制をとって、貴族や豪族の私有していた「田荘」と呼ばれていた土地、そして「部曲」(かきべ)と呼ばれていた人民を朝廷の直接支配下に置くものであった。このため、地方を国、郡、里に分割するとともに、これまでの地方豪族の中から「郡司」や「里長」という下級官僚に任命する、あわせてそれぞれの国には中央から国司を派遣して治めさせることにした。更には、戸籍と計帳を作成するとともに、6歳以上の男子に田2段(2反、約24アール)、同女子にはその三分の二の1段120歩(約16アール)の土地を、「口分田」(くぶんでん)として一代に限り貸し、耕作させる。
 この新法制では、統一税制が採用される。具体的には、人民には租、庸、調、雑徭などの義務を課す。「租」は口分田1段からの収穫を百束と見積もり、このうち稲2束2把、収穫高の約3%を朝廷に上納させることに定めた。「庸」は、成人男子一人につき麻布2丈5尺を納入させること(本来は都で年に10日間の労役に服させる)にある。さらに「調」は人頭税であり、絹、糸、綿、麻布の中から一つを選んで朝廷に物納させる。
 さらに労働税があった。その中の「雑徭」として、国司の下で年間15~60日間の労役に就くことが求められる。『養老の賦役令』によると、公民は一年に一回都に出て、食料を自前で労力を提供、つまり無償労働する義務を負っていた。瀧川政次郎氏は、これを次のように説明している。
 「この一年十日の徭役を正役と云い、正役畢つて尚徴せられる徭役を留役と云った。正役は蓋し正則の徭役の意であり、留役は正役畢つて放環すべき徭丁を尚留めて役する徭役の意味である。この正役を負担したものは、庸を徴せられることなく、この正役を免れたものは、庸を徴せられるのである。ゆえに庸として化せられる物品は、実に当時の十日間の法定賃金の額より成っている。即ち当時の国家は、宮殿の造営、新都の経営等の国家に労力を必要とすることの有る年には、人民より正役を徴し、正役を以て足らざるときには、更に人民をして留役せしめ、国家に労力を要せざる年には庸を徴したのである。而して奈良時代以後に於いては、徭役を徴する場合に於いても、自ら労働を提供することを欲しない人民からは、徭分銭又は徭分稲なるものを徴し、これを資源として人民を雇ひ、これをして所要の労務につかしめた。」(瀧川政次郎「日本奴隷経済史」刀江書院、1972再発行)
 公民の男子には、「兵役」もあった。成人男子三人に一人の割合で徴兵される。その場合、軍団「兵士」として10番交代で10日間を勤務しなければならない。その他にも、「仕丁」といって都を守る中央官庁の「衛士」として労役が1年間課せられたり、九州防備の「防人」として3年間任地に赴く義務も課せられる。

(続く)

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美作 (小坂 武)
2016-03-31 23:09:00
最近 貴方のプログをしりました。私は勝央町河原の生まれで 小坂武と申します。江戸時代の河原の政治経済文化 あるいは住民のアイデンティティはどこにあったかなど知りたいところです。ひいては美作全般についてはどうなっていたのか など知りたいところです。東作誌 正木輝雄1815 がよく例に出される資料ですが 貴重なのですが 点で突いたようで全体がよく分からないところです。
森藩が解体され 津山松平藩+幕府領(天領)になり 享保年間に幕府老中土岐氏が上野田沼藩を拝領し同時に美作に沼田藩領1万4千石を領有したものと思われます。以来 明治まで河原付近は 津山藩、幕府領、沼田藩に適当に分割されていたようです。関東沼田藩から遠くはなれた美作に出城があるわけではなく いかに収めたか よくわからないのです。おそらくは 大地主を庄屋にして準沼田藩役人として使用したのでしょうが 一揆も起こさず よくやったように思われます。年貢米の管理がどのようにされてきたのか 知りたいところです。美作地区では 一揆が何回か起きています。その背後を理解すれば 住民の思想まで理解できるように思っています。
美作ひいては日本全体の明治前夜の思想を明かにすることは 地方文化を語る上で大いに意味があるとおもいます。大いに美作を語ってほしいと思います。

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