(258)『自然と人間の歴史・日本篇』日本国憲法第9条の成立過程(その経緯)

2017-08-09 09:45:50 | Weblog
(258)『自然と人間の歴史・日本篇』日本国憲法第9条の成立過程(その経緯)

 こうして、私たちの日本国憲法は、あらゆる戦力の不保持を国際的な平和の力に託して高らかにうたいあげた。ところで、2015年(平成26年)今も、戦後約70年余を経て日本国憲法の平和・民主条項が外国からの借り物だという意見がある。それに曰く、「憲法原案を作成したのはGHQ(総司令部)に雇われた25人を中心とする方々であって、真に日本の民主主義的な手続きによってつくられたものではない」などと、平たく言えば、「いまだに借り物だから、そもそも外から押しつけられた、だから不本意なのである」と騒ぎ立てることになっている。参考までに、1946年1月7日のアメリカのワシントンで、同国の国務省、陸軍、海軍の三省が集まっての調整委員会において、『日本の統治体制の改革』(通称で「SWNCC228」)という文書が、日本の新憲法の方向性を含み決めるものとしてつくられ、秘密裏にGHQに送付されていた。
 さて、こうした日本国憲法が押しつけでつくられたと主張する意見や議論に対しては、どのように評価したらよいのであろうか。一つは、憲法案をGHQが作ったのには、それなりに、やむを得ざる理由があったからである。というのは、おりしも当時の幣原喜重郎内閣(1945年10月9日に成立)での松本委員会(松本国務大臣が主宰、また当時の外務相は吉田茂)において専門家を集め、占領側に提出する新憲法案を作っていた。ところが、これのうち「乙案」に近い「宮沢甲案」が、1946年2月1日付け毎日新聞記事としてスクープされてしまった。その内容としては、大日本帝国憲法に若干の手直しを施すことで、これまでの日本の支配勢力の力を温存させようとするものであった。これを見たGHQ(総司令部)はもはや日本政府から満足すべき新憲法案が出て来ないと判断し、自らこれを作ることにした。1946年2月中に発足することが予定されていた極東委員会においてソ連などの理解が得られないことを考慮したものと思われる(詳細には、例えば、田中英夫『憲法制定をめぐる法文化の衝突』:坂本義和とR・E・ウォード編『日本占領の研究』東京大学出版会、1987に所収)。
 加えるに、そのようにして第9条原案が作成されて後の帝国議会での憲法制定手続きにこれといった瑕疵(かし)はなかったこと、世界史上に類を見ない絶対平和条項制定への国民の大方の意思が働いていたことは、疑う余地がない。わけても後者については、国民の多くが悲惨な戦争の惨禍を繰り返してはならないと決意するに至っていたことを、ゆめゆめ疑うべきでない。なぜなら、そこには当時の反ファシズムの戦いで倒れていった全世界の進歩的な人々の平和への願いが結実しているからだと、私にはそのように思える。あわせて、その淵源には遠く800年前のイギリスの「マグナカルタ」がある。当時のイギリス王は、これにより有力貴族により権力行使を制限されることになったのだ。民主主義というのは、万能ではなく、特に施政者が暴走するときには、それを補充する手立てが必要だ。それが立憲主義、平たくいうと法による行政なのであって、両方が補い合うことで、独裁政治へ突き進むことを阻止する役割を担う。この現憲法が画期的とされる、すなわち日本憲政史上にとどまらず、世界の有史に他に例を見ないこの平和条項の創設も、日本国民が当時の世界の進歩的な民主勢力の力を借りて初めて行うことができた、と言えるのではないか。

(続く)

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