『美作の野は晴れて』&『自然と人間の歴史・世界篇』&『自然と人間の歴史・日本篇』&『岡山(美作・備前・備中)の今昔』

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◎一二四『138億年の日本史』天明大飢饉など飢饉の全国発生(18世紀後半)

2017-05-13 09:41:45 | Weblog
一二四『138億年の日本史』天明大飢饉など飢饉の全国発生(18世紀後半)

 ところで、この時期には大いなる天災が重なった。1783年6月25日(天明3年5月26日)からの浅間山の大規模噴火であった。これのつながりについて、当地に残っている「信州浅間山大焼凶年にて佐久郡騒動覚書(騒動覚書)」には、こうある。
 「天明三年六月二十四日頃より、浅間山焼出し日毎に強く鳴り渡り、七月二三日の頃大焼け大鳴り、家々の戸障子殊の外に揺れ、夜に入り焼け登り候。」
 「八日の晩方より少々ゆれ静まり、夫より上州吾妻郡利根川の川上、浅間の北方より長さ十二間、横八九間、高さ二三丈の大石、十七里余り流れ出し、百姓家五十八カ村押し流し、上州五鈴村より二三里下、死人沢山出来し、其の外川筋へ死人大分かかり之有り候との事。
 碓氷峠人馬通路之無く、妙義、高崎、榛名辺りは砂四五寸降り、武州八王子、江戸惣家(草加)辺りは寺にも降り、浅間の鳴り音は一円二三十里四方へ聞こえ候との事也。」
 そして、これが、騒動へと発展していく。曰く、「天明三年九月十八日の夜、上州一ノ宮北方、人見ケ原に何人(なにひと)の高札を立て、「此の節至って米価高値に相成り、末々の者難儀至極に付き、下仁田、本宿両村の穀屋(米屋)を打潰し、続いて信州穀物囲い置き処(御蔵)の富人、並びに買置きの者共を打ち潰し米価豊かに仕るべく候以上」と記されたり。」
 この浅間山の大噴火の有様は、多くの絵師によって描かれている。私の現在住んでいる比企丘陵の金勝山からは、晴れの日にはこの浅間山が「おむすび」の頭の如くに見えているが、浅間山噴火の際には関東のかなりの範囲には火山灰が降ったのではないか。これに対する諸藩の対応は色々であった。あるところは、凶作の予兆がある年には、米価が高騰するのを見越して、領内の米を江戸や大坂に送ってできるだけ高く売りさばこうとしたり、商人たちも手持ちの米を売り惜しむ動きが見られた。そうなると、領内での米の流通が連鎖的に滞るようになって、多くの栄養失調の者、餓死者、離散者が出ることになっていった。
 この噴火があってからは、東北地方を中心に冷害が多発するようになっていく。関東においても天変地異が相次ぐ。例えば、1784年(天明4年)、武蔵国の上福岡新田村(現在の埼玉県神福岡市)の役人から「夫食」(食料)拝借を求める嘆願書が、次の文言にて川越藩に提出されている。
 「乍恐以書付奉願上候事
一、当村後小前御百姓、去ル寅年水損仕、又候去夏中、度々長雨ニ而(しかして)水損仕候、田畑格別違ニ而(しかして)、悉困窮仕候、依之小前御百姓夫食一向無御座、及飢ニ候躰之御百姓多御座候付、夫食御拝食願上候、何卒以御慈悲夫食御拝借被為仰付被下置候ハ者、相他偏ニ難有仕合ニ奉存候以上
天明四甲辰年正月
福岡新田、百姓代・善右衛門(印)、百姓代・惣右衛門(印)、組頭・市兵衛(印)、同 弥右衛門(印)、名主・権右衛門(印)、御代官御役所」(福岡新田、柳川哲家文書にして、埼玉県上福岡市教育委員会「市史調査報告書第6集、水害資料集成ー明治43年大水害を中心に」1995年3月収録より引用)
 1781年(天明元年)から1788年(天明8年)までの天明年間には、全国的には、あの「天明の大飢饉」があった。餓死者は数十万、飢えに晒された者はその数倍とも言われる。1750年2月当時の幕府による日本の全国人口調査の結果は、男が1381万8654人、女が1209万9176人、合計では2591万7830人であったから、大変な被害であったといえる。 
 1786年(天明6年)の被害は将軍の膝元である関東においても、深刻な状況であった。『徳川実記』は、こう伝える。
 「七月十七日の頃。ことしの春は日ごとに風烈しく。火災しげきこと常にこえしかば。四民ただ雨をのみのぞみしが。夏のほどより連日雨ふり風つよく不時の冷気にて。時の衣をきるものなし。のちには雨をやみなく神なりはためき。おどろおどろしかりしかば、又いかなることやいで来らんと。人ごとに安きこころもなかりしに。この月十二日より。わけて雨風はげしく。昨日の夕よりにはかに川々の水みなぎり来たりて、両国。永代をはじめ橋梁ををしながし、青山。牛込などいへる高燥(こうそう)の地さへも山水出で。屋舎をやぶるに至りければ(中略)
 まして郊塙(こうかく)の外は堤上も七八尺。田圃は一丈四五尺ばかりも水みち。竪川。逆井。葛西(かさい)。松戸。利根川のあたり。草加。越谷(こしがや)。粕壁。栗橋の宿駅までも。ただ海のごとく。森々としてわかず。岡は没して洲となり。瀬は変じて淵となりぬ。(中略)
 すべて慶長のむかし府を開かれしより後。関東の国々水害をかうぶることありし中にも、これまでは寛保二年をもて大水と称せしが。こたびはなほそれにも十倍せりといへり。
(後略)」(『徳川実記』の「しゅん明院殿御実記」巻五十五、1786年(天明6年)より引用)

(続く)

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