(84)『自然と人間の歴史』鎌倉期にかけての仏教芸術

2017-08-05 22:06:20 | Weblog
(84)『自然と人間の歴史』鎌倉期にかけての仏教芸術

 鎌倉時代には、写実的な仏像製作が盛んに行われている。その中でも、法相宗(ほっそうしゅう)の総本山である奈良興福寺の北円堂に、弥勒如来(みろくにょらい)像の両脇を守るかのように安置されている2体が、日本肖像彫刻の最高傑作にと言うにふさわしいものだとされる。
 ちなみに、この寺は平城遷都の際の710年(和銅3年)、藤原不比等の計画によって移された。この時、「興福寺」と名付けられた。平安時代には春日社の実権を手中におさめた。朝廷の庇護を受けて、大和国を領するほどの大寺に昇進した。鎌倉・室町時代になると、幕府は大和国に守護を置かず、興福寺を以てその任に当たらせている。
 群を抜いたできばえにより、国宝にして、この主の彫刻の我が国最高傑作と評されているのだが、作者ははっきりしない。桂材から力強く掘り出された様は、運慶作というのが一般的、だが仔細には、彼の弟子であった運助が無著像を、同じく弟子の運賀が世親像を、それぞれ一木彫(無著像)、寄木造(世親像)の技法で造ったのだといわれる。運慶と言えば、東大寺南大門仁王像を一門を率いて築き上げた惣(総)大仏師であって、多数説では運慶の指導の下で、これら二人が彫刻したのであろうと。
 これら像の見立てに移ろう。なにしろ像高が無著立像(むちゃくりゅうぞう)で194.7センチメートル、世親立像(せしんりゅうぞう)で191.6センチメートルもある。顔つきも、日本人とはやや違っているのかもしれない。興味深いことに、この二つの仏像の顔はまるで生きているように写実的な造形である。無著像は老人の顔で右下を見、世親像は壮年の顔で左を向き遠くを見ている。両像ともに2段に組んだ洲浜座(すはまざ)に、本尊側の足をわずかに踏み出して立つことで知られる。
 歴史を振り返ると、制作年代から千年近い前の時代、5世紀頃の北インドには、グプタ王朝が栄えていた。その地で大乗仏教派の法相教学を発展させたインド人兄弟に、アサンガとヴァスバンドウがいて、今日でいうと仏教学者に近かったのではないか。当時の仏教は、ヒンドゥー教に先を越されていた。また、仏教徒の内でも、大乗の徒は少数派であった。かの中国の僧法顕(ほっけん)は5世紀中ごろにこの王朝の各地を訪れ、その『仏国記』の中にて当地の仏教事情を記している。いうなれば、アサンガとヴァスバンドウの二人は当時の北インドの宗教界の傍流に押しやられていたのだ。
 では、この寺になぜこのような稀代の仏像が鎮座することになったのだろうか。そのことが窺えそうなものに、旧仏教からの新しい時代への何らかのアプローチがあったのではないか。両像の造立年代は、推定で1208年と見られている。1204年頃に劃期を迎える、旧仏教側からの専従念仏排斥の動きとは直接関係はないのだろうが、ともあれ運慶らを招いて、仏教が「中華文明」という東西文明の出会うところ、その衝突と融合の「るつぼ」に投入される以前、北インドであった時代のまで遡り、法相宗とは何たるかの起源を辿ろうとした事業の一環であったことは想像して差し支えあるまい。その遙かなる追憶の所産が、両像となって結実したものと概括できるのではないか。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« (82)『自然と人間の歴史... | トップ | (86)『自然と人間の歴史... »

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL