(309)『自然と人間の歴史・日本篇』1960年代の文化(陶芸など)

2017-08-09 21:48:36 | Weblog
(309)『自然と人間の歴史・日本篇』1960年代の文化(陶芸など)

 河井寛次郎(かわいかんじろう、1890~1966)は、主に陶芸家で知られる。島根県能義郡安来町(現在の島根県安来市東小路)に生まれた。幼い頃に母親を亡くし里子に出された。島根県立松江第一中学校(現在の松江北高校)を経ての1910年(明治43年)、東京高等工業学校((現在の東京工業大学)窯業科に入学。卒業後の1914年(大正3)年、京都市立陶磁器試験場に入る。釉薬を中心とした研究をおこなったとか。試験場を辞めたのちは、各地の窯をおとずれて回った。1920年(大正9年)、京都市五条坂にみずからの窯をきずき、鐘渓窯(しょうけいよう)と名づける。これが陶芸家としての独立で、時に河井30歳を数えていた。翌年には初個展を開き、中国古陶磁の手法に基づいた精緻な作品で一躍有名になる。親友の陶芸家・濱田庄司(はまだしょうじ)と、1万種類以上の釉薬(ゆうやく)(=うわぐすり)や中国陶磁器(とうじき)などの研究に打ち込(こ)んだとか。1924年(大正13年)、濱田を介して、柳宗悦と知り合い、生活に根ざした陶器作りをめざすようになっていく。この柳、浜田、河井の出会いが、民藝運動へと発展してゆく。
 戦後は民芸的な作風から離れ、自由で独創的な陶器を作り始める。その卓越した芸術性は世界でも高い評価を受けていく。その作品は、数多い。それらのうち、大原美術館に展示されている「三色釉扁壷」(さんしょくゆうへんこ)は、河井の晩年に制作されたとある。「型をつかって造形され、釉薬は打釉(釉薬を無造作に表面にたたきつけるように投げかける手法)」(同館ホームページの同作品注釈)が用いられているとのことであり、2016年10月の観賞では、黒、緑、赤の3色に白を挟んだ配色のコントラストが大層新鮮に感じられた。全体にまるっこい。壺の胴体の真ん中部分がかなり膨らみ加減といったところか。それから壺のおしりの部分がすぼんでいて、なかなかに面白い造形だ。肌触りというか、温かさが伝わってくるから、不思議だ。人間国宝推薦なんかの誘いには眼を向けず、生涯無冠をもって佳(よ)しとしたのは、彼の陶工としての人生を際立たせるエピソードとなっているのではないか。

(続く)

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