『美作の野は晴れて』&『138億年の日本史』&『岡山(美作・備前・備中)の今昔』

自分史と、日本史と、岡山(美作・備前・備中)の民衆史です。

『50の2』『岡山の今昔』倉敷から浅口、笠岡へ

2017-06-15 23:26:41 | Weblog
『50の2』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』倉敷から浅口、笠岡へ

 岡山から現在の山陽道に沿って西へは、ごく大雑把に現在の山陽本線に乗って、庭瀬(にわせ、岡山市北区)に着く。その少し先から倉敷市に入って中庄(なかしょう)に至るが、ここはもう田園地帯といったところか。直ぐ南に位置するのは、同市の早島町(はやしまちょう)である。かつて上代の頃、今の岡山県南部に広がっていたであろう「吉備の穴海」があって、「早島」という名の島はその只中にあった、とされる。その後近代に至って、宇喜多氏(うきたし)が干拓を手掛けたのを嚆矢(こうし)として、以来明治期までにこのあたりはことごとく陸地に組み入れられてゆく。そしていまでは、「ここがかつて海であったのか」と、上代の面影すら見つけ難いようだ。
 さて、中庄を過ぎて西へ辿って行くと、倉敷駅に到着するであろう。そこから西進して西阿知(にしあち)の駅へと到る。現在の西阿知は倉敷市倉敷地域にある地区となっているが、かつての浅口郡西阿知町にあたる。さらに同方向へ進んで鉄橋の上て高梁川を渡るのだ。このあたり川幅は、河原を入れると300メートルを超えているのであろうか。直ぐ南には、国道2号線の高梁川大橋が架けられており、こちらは大動脈ゆえ、多くの車がせわしなく行き来している筈だ。鉄路に戻って、同市船穂(ふなお)地区に入る。ここは高梁川の東岸だ。この地だが、21世紀に入ってからの合併で吉備郡真備町と共に倉敷市に編入され、同市船穂や町となった。地勢としては、大きく高い山は見あたらない。町の南部と北部は標高30~150メートル位の丘陵地帯、これと対照的に南部地区は概ね平野が広がっており。そこでの標高はわずか1~3メートル位でしかないとのこと。このあたりの多くは、埋め立て地で陸地になった経緯をもつ。
 この地区での人々の暮らしの概要だが、人口は7千人台(2017年)でしかない。市街地の郊外といったところか。どちらかというと農村で、農家のある程度が施設園芸、その中でも葡萄栽培が生業(なりわい)であるらしい。そもそも岡山で葡萄の栽培が始まったのは、前世紀後半にまで遡る。現在、この地区での代表品種のマスカット・オブ・アレキサンドリア(略称は「アレキ」)についていえば、エメラルド色をした大粒の実にして、「女王」の異名をもつ。日本では、1886年に岡山県岡山市津島の地で温室による栽培が試みられたのに始まる。
 それから相当な年月が経過していった。埋め立てた農地であるがゆえの塩害もあって、農家の収入は安定しなかったのではないか。やがて第二次大戦後となって、温暖で雨の少ない自然を活用して、この新しい品種の葡萄の栽培に取り組んでみよう、との気概をもつ人々が出てきた。1947年には、当地でアレキの栽培が始まる。1956年になると、アレキの温室栽培が始まる。
 それからはとんとん拍子で栽培農家が増え、生産が伸びていく。1998年には、ピークに近い、アレキ生産農家数は102戸、栽培面積30ヘクタール、出荷額は約9億円にもなる。その後はだんだんに減っていき、2010年には同102戸、11ヘクタール、約4億円(JA岡山西調べ)と、ピーク時に比べほぼ半減しているとのこと。とはいえ、丘陵の斜面に沿って建てられた温室の群れが見える。栽培期、1~10アールのハウス(温室)の中では3000以上の房がぶら下がっていると伝わる。アレキの房がそして反対側に目を向けると、向こうに海を臨む。これらが車窓からの視界にある間、「ああ、ここで130年にもわたってきたアレキの生産が行われてきたんだなあ」との感慨さえもがこみ上げてくるのではないだろうか。
 さて、船穂を通り過ぎた列車は、ほどなく新倉敷の駅に列車は滑り込むのだが、ここで、トンネルを含め南西へ下ってきた山陽新幹線と出会う訳だ。新倉敷を出たら、ほどなく浅口市(あさくちし)に入って、そこの金光(こんこう)に来たる。そこを過ぎて尚も西へ進むと、鴨方(かもがた)に至る。
 江戸時代、この地には新田藩(にったはん)と呼ばれる小さな藩があった。これとなるには、岡山藩の分藩としてではなく、1672年(寛12年)に本藩の内高2万5千石を与えられる。事の成り行きは、前岡山藩主(初代)池田光政は、隠居するにあたって、二男の池田政言(まさとき)宛てに同石分の新田を分知することで、別家(本藩本知の外高を持った上での分家待遇)を立てようと思い立つ。この願い出は、大方幕府(将軍は徳川家綱)の認めるところとなる。以来、岡山本家の支藩扱いにて、特に領内に陣屋は置かれることなく、日常の政務は本藩が面倒を看ていた形だ。そのまま推移して幕末に至ると、鴨方藩と称した。これら政務に関連して、本藩との間を結ぶ連絡道「鴨方往来」(かもがたおうらい)が設けられていた。この道は、当時の岡山城下、栄町の千阿弥橋を起点として、西に向かって当時の庭瀬(にわせ、備中国都宇郡賀夜郷)、撫川(なしかわ、上代のこのあたりは備中国都宇郡撫川郷)、浜ノ茶屋、長尾、占見、地頭下などを通って鴨方に通じていた。瀬戸内の海岸線に近いところから、「浜街道」(はまかいどう)とも呼ばれたらしい。
 この鴨方(生まれたのは、現在の岡山市街)の郷土に江戸後期に生まれた画家に、浦上玉堂(うらかみぎょくどう、1745~1820、本名は浦上兵右衛門)がいる。彼は早くに武家の家督を継いでから4代藩主・池田政香(いけだまさか、任は1760~1768)に気に入られるなどして精勤し、37歳で同藩の大目付に出世する。しかし、43歳の時、その任を解かれ、左遷される。理由については、はっきりしていない。けれども、藩内に「此兵右衛門は性質院陰逸を好み常に書画を翫(もてあそ)び琴を弾じ詩を賦し雅客を迎へ世俗のまじらひを謝し只好事にのみ耽りければ勤仕も任せずなり行き」(岡山藩士・斎藤一興「池田家履歴略記」)とあるので、当たらずとも遠からずというところか。48歳の時には、妻が亡くなる。50歳にして、二人の息子を連れて脱藩する。鴨方藩とその宗藩の岡山藩が脱藩に寛容であったことも幸いしたのかもしれない。それからは、九州から北陸くらいまでの各地を放浪する。画業もさることながら、「玉堂」の号名の由来である七絃琴の名手であったことも、旅ゆく先々で名士としての応対、庇護に預かるのに役だったに違いない。
 やがて京都に落ち着いてからは、いよいよ画業に精を出す。玉堂の画風のすごさは、心境の自由さにあるのではなかろうか。例えば、40歳代前半の作品に「南村訪村図」(岡山県立博物館蔵)がある。岡山の豪商河本一阿のもとめに応じて描かれたらしい。小品だが、中国風の山中に人が二人見えていて、後の漂泊の哀感がもう滲み出ているのでないか。そればかりでなく、観る者に、もこもこした息吹を与えてくれるのが、なんとも趣がある。後半生(こうはんせい)には、日本画壇とは一線を画しながらも、怒濤の峰を築いていく畢生(ひっせい)の画家となってゆく彼であったのだが、それに至る頃の故郷にあって何を考え、どのような日々を送っていたのであろうか。
 さらに鴨方を出て少し西に行くと、そこは里庄である。明治初期の道でみると、里庄からは、川手・本町・西町から里庄町高岡を経て笠岡の小田県庁(現在の笠岡小学校のある場所)に達していた。一方、里庄町から南へ向けては、南隣には寄島町(よりしまちょう)がある。ちなみに、以前の浅口郡内のうち、2006年3月に金光、鴨方、寄島の三つの町が合併して浅口市となっている。今地図を広げ、この寄島町へ倉敷方面から行くには、主に二つのルートがあるようだ。一つは、里庄町から県道矢掛寄島線を南に暫く下って行くと、そこはもう寄島の海である。今ひとつは、現在の倉敷市の南端から海岸沿いを辿って行けば、程なくしてこの温暖勝風光明媚な町に至ることができるだろう。
 現在の浅口市寄島町南部の沖合いには、小さな三つの島(寄島とも三郎島とも)があるとのことだし、その南側には、特に瀬戸内海では今やほとんど見ることができない自然が広がっていて、さらに南方沖合(水島灘、備後灘の寄り合うあたり)には、いわゆる「笠岡諸島」があって、人々の生活がここでも営営と続いているのである。このあたりでは、大まかでの『古事記』に見える神功皇后(じんぐうこうごう、『日本書紀』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・『古事記』では息長帯 比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひめ))とは、仲哀大王の皇后であるとされる人物で、応神大王を産んだとされる人物とされるものの、現在では、文中での脈絡のままに実在していた可能性は極めて薄いと考えられている。けれども、各地にこの種の伝説が数多く残されている中での一つとして、この地ならではの伝説が生み出されてきたことは、それはそれとして、郷土にとって未来に向かっての意義あることとして受け取って良いのではあるまいか。
 さらに寄島の西隣は、もう笠岡市である。これを主観であらわすなら、そこまではすぐ間近なのに違いない。この笠岡地区は、倉敷のさらに西に位置する。福山からは直ぐ東隣のところにある。1871年(明治4年)の廃藩置県後、この地域は庭瀬・足守・浅尾・成羽・岡田・高梁・新見・倉敷などの10県に旧備後国福山県をも加える動きとなり、1872年(明治5年)には小田県と称し、県庁を幕府笠岡代官所跡(小田郡笠岡村)におくことにした。小田県として笠岡に県庁が置かれたのであったが、それから3年後の1875年(明治8年)には全体が岡山県に統合された。ところが、翌年の第2次府県統合により、岡山県のうち旧備後国の福山が広島県へ移管され現在に至る。ついでながら、山陽本線の笠岡を過ぎては、備後の国に入り、その境の大門に、さらに福山へ通じていたのであった。
 この地域での干拓事業の歴史も古い。1619年(元和5年)、水野日向守勝成が大和郡山5万石より転封によって福山城主となった。石高は、譜代の重鎮らしく10万石があてがわれた。これにより、笠岡は大島、尾坂等の一部を除き、現在の笠岡市域の大半がこの水野領に組み込まれる。同藩では、入封したらさっそく領地の南に広がる海面の干拓に乗りだした。気候的にも温暖で雨が少なく、地形的にも平野が少ないため、土地を干拓や埋め立てを行うことによってまかなうことを狙った。この地域に大きな川が流れていないことがあり、夏の渇水時には慢性的な水不足になるなど、稲作りに支障が出ることでの、百姓たちの苦労があった。
 かつての富岡湾の干拓も、江戸時代の古くから計画がなされていた。しかし、何回も挫折したものが、1946年(昭和21年)3月には笠岡湾干拓事業として、笠岡町に委託された。予算的制約から進捗もなかったのが、1948年(昭和23年)7月農林省に引き継がれ、それから13年後の1957年(昭和33年)12月完成した。笠岡湾の干拓事業は、1968年(昭和43年5月)に関係漁民の深い理解により漁業補償が解決され、同年12月に工事が開始され、1990年(平成2年)3月に完成した。東西の堤防で締め切って造成した面積は2千ヘクタール近くにも及ぶ、日本で三番目に大きな干拓地が出来上がった。
 これに関連して、最南端から程近くの海中にあった神島(こうのしま)も、陸続きとなった。顧みれば、地元出身の画家・小野竹喬(おのちっきょう)の作品には、郷里の自然や人々の暮らしぶりを題材にしたものが多いが、わけても『島二作』においては神島の穏やかそうに写る自然の中で、農作業にいそしんだりの人々の姿がさらりとしたタッチで描かれている。こうして現代にいたり、装いを新たにした大規模干拓地の新地分は、工事を手掛けた当初は大規模機械化農地として期待されていた。ところが、造成後においてはコメ余りの中、性格が変化してきた。これに伴い、倉敷市を流れる高梁川から導水管を引いてくることにより、離島含む全世帯に水道水を給水することができ出したのはプラス面とされる。
 なお、笠岡及びその周辺の沖合は、「備讃瀬戸」(びさんせと)といって、このあたりに点在する島々の大半が瀬戸内海国立公園の指定区域内にある。高島、白石島、北木島、飛島、真鍋島、六島のいずれもが古代からの内海航路の要衝として栄えたことで知られる。特に白石島の高山展望台からの眺望は、天候に恵まれるならば、大山や、四国の最高峰である石鎚山などが見渡せるとのことである。

(続く)

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