(268)『自然と人間の歴史・日本篇』片面講和

2017-08-09 10:18:50 | Weblog
(268)『自然と人間の歴史・日本篇』片面講和

 1951年(昭和26年)9月8日、日本はアメリカなど48カ国との間で平和条約の署名を行った。その時、旧ソ連、旧チェコスロバキア及びポーランドなどは東西冷戦の影響で署名に加わらなかった。翌1952年(昭和27年)4月28日、サンフランシスコ平和条約が発効したことにより、日本は独立を回復した。1968年(昭和43年)6月26日、アメリカから小笠原諸島を返還した。いわゆる「沖縄返還協定」によって沖縄、正確には「琉球諸島及び大東諸島」がアメリカから返還されたのは、1972年(昭和47年)5月15日のことであった。
 この時の講和が「片面講和」と呼ばれるのは、1950年(昭和25年)6月から始まっていた朝鮮戦争が継続する中、韓国とは講和条約の調印がまだであった。そこで同年10月から、アメリカの斡旋で日本と韓国との間で、平和条約締結に向けた予備交渉が開始された。このとき、日本側には、永きにわたる植民地支配についての根本的な反省を口にするどころか、1953年(昭和28年)10月の久保田貫一郎代表が「日本が(朝鮮に)行かなかったとすれば中国か露西亜が入って来たであろう」とうそぶく始末であった。このため、韓国からの戦争賠償の請求の話に対しては、対日講和条約で放棄したはずの在朝日本人財産に対する請求権を持ち出すことで火花を散らすことに汲々とし、これで講和の話は中断した。
 その後4年半の中断を経て双方は話し合うことになるのだが、日本側はここでもこれまでの主張を繰り返し、曖昧な態度で責任をとりたくない姿勢をとりつづける。その後、この困難な局面を打開したのは韓国側の譲歩であって、これにより日本がパク・チョンヒ政権に韓国の経済開発のために合計8億ドルを提供する見返りに、韓国は日本の戦争および植民地支配により被った被害を一切問わないことにすることでの政治的な妥協が成立した。両国による基本条約の締結は1965年(昭和40年)6月22日になされる。およそこのような経緯によって、日本は韓国と韓国人民に対しはっきりとした謝罪をすることなく、国交の約束を結んでいくのである。
 さて、1950年代から1960年代前半にかけては、大きな変化があった。その一つは、国際面での中国との関係であり、経済面では新しい要素を織り込みながら、国内経済が高度成長期になりかけていたことにある。
 日本を取り巻く国際政治面では、日本の侵略を受けていた中国の指導者である毛沢東は、後に(1961年に訪中した日本社会党の国会議員らとの対談において)、こう述べて当時を振り返っている。
 「日本の軍閥はかつて、中国の半分以上を占領していました。このために中国人民が教育されたのです。そうでなければ、中国人民は自覚もしないし、団結もできなかったでしょう。そしてわれわれはいまなお山のなかにいて、北京にきて京劇などをみることはできなかったでしょう。日本の『皇軍』が大半の中国を占領していたからこそ、中国人民にとって他に出路がなかった。それだから、自覚して武装しはじめたのです。多くの抗日根拠地をつくって、その後の解放戦争において勝利するための条件をつくりだしました。日本の独占資本や軍閥は〈よいこと〉をしてくれました。もし感謝する必要があるならば、私はむしろ日本の軍閥に感謝したいのです。」(外務省アジア局中国課監修「日中関係基本資料集1949~1969」、霞山会、1970年、資料70〈「毛沢東主席の黒田寿男社会党議員等に対する談話」1961年1月24日〉)

(続く)

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