□108『岡山の今昔』岡山から総社・倉敷へ(近世から現代へ)

2016-03-18 20:40:37 | Weblog

108『岡山(美作・備前・備中)の今昔』岡山から総社・倉敷へ(近代から現代へ)

 総社からの高梁川は、備中南部の平野部を川幅を広げながら、悠々と流れを押し出してゆく。行く河の流れは元の流れにあらずして、時々刻々と変貌を遂げるというのは、かの釈尊の言葉である。というのも、このあたりの高梁川の清らかな流れは、この数百年来のうちにも、大きな変化を遂げた。明治以前までのこの川は、そもそも東と西の二つに分岐して海へ注いでいた。具体的な地名でいうと、その頃までの高梁川は、八幡山の北麓で東西2つに分かれていた。西の方は、八幡山の西、現在の柳井原貯水池あたりを通って、現在の高梁川の流路から玉島湾へ流れ出ていた。もう一つ、東の方の流れは、八幡山の北から東へ屈曲し、倉敷に入って酒津から南へと流れ、連島の東でこれまた当時の玉島湾に注いでいた。
 備中においては、この高梁川に沿って南に下るほどに埋立で造られた土地らしい趣がある。この川の広大な下流域を中心にして、倉敷という広域都市ができていった。その現在像としては、古くからの倉敷エリア、児島エリア、真備エリア、船穂エリア、水島エリア、そして玉島エリアの6つ地区に分かれる。
 これらのうち備中国に属していた玉島については、若き日の良寛和尚との関わりが伝わる。1779年(安政8年)、22歳の若き良寛は玉島(旧の備中国玉島湊)地を踏んだ。故郷の寺では身をもてあましていたらしく、広い舞台に出たかったのではないか。その寺は、玉島(現在の倉敷市玉島柏島)の高台にある。寺内の案内板にも、「またこの地は円通寺をふくめて山全体が高遠として、瀬戸内海の眺望はすばらしい」とある。曹洞宗寺院の円通寺第十世大忍国仙和尚に従い、これからは厳しい修行が始まる。2016年10月の円通寺の建つところを少し下った草原のベンチから見えるのは、手前にはなだらかに海へと向かううち、つれづれに茂る落葉樹、そしてこんもりとしてあるのが常緑樹といったところか。更に左手の川の流れ(溜川、道口川、里見川など)を挟んでの奥方、「玉島乙津島」地区の向こう側には、大河となった高梁川が海へと注ぐ。その境界には大きな橋が架けられていて、その奥に位置する水島の工業地帯を遙かに望む。
 そもそも良寛は1758年(宝暦8年)、越後国(現在の新潟県)三島郡出雲崎住で、代々名主兼神職を務める橘屋山本家の長男として生まれた。幼名を栄蔵という。大森子陽の塾に入り和漢の学を修めた時期もある。18歳の頃、名主見習いとなった彼は、そのわずか数カ月後に家を出てしまう。越後の曹洞宗光照寺に駆け込み、出家した。この光照寺で良寛は、越後へ巡錫(じゅんしゃく)にきて、しばらく同寺に滞留していた国仙和尚と出会う。そしてその徳を慕って弟子となり、越後からはるばる玉島へとやってきたのである。
 玉島の円通寺の開山は、徳翁良高(1649~1709))であって、1600年代後半の当時は円通庵と号した。二代目の雄禅良英和尚の代に、円通寺となる。以後高僧が相継ぎ、良寛がやって来た時には百年以上が経っていた。十代目の住持国仙の下で、良寛は厳しい修行をしたのだろうか。寝泊まりしたのは、現在「良寛堂」となっているところだった。今では往年の賑わいは片鱗すらなくとも、目を凝らせば彼と盟友たちの仏道探求への覇気ある姿が彷彿としてくるから、不思議だ。その後の1790年(寛政2年)、33歳で師の国仙から印可(いんが)の偈(げ゙)を授けられる。その翌年、国仙和尚の死を契機としてのことなのか、仔細はわからないが、諸国行脚の旅に出る。その後の彼に『円通寺』と題する漢詩があって、読み下し文に「円通寺に来ってより、幾度か冬春を経たる、門前 千家の邑(ゆう)、更に一人を知らず、衣垢(あか)づけば手自ら濯(あら)い、食尽くれば城闉(じょうえん)に出づ、曾(かつ)て高僧伝を読むに、僧可は清貧なるべしと」(入矢義高『日本の禅語録二十良寛』(講談社、1978年)による)とある。推して知るべしだが、たぶん、国仙の衣鉢を継ぐこみとのかなわなかった良寛としては、師亡き後のこの寺の主人となった玄透即中(後に本山永平寺の住持に返り咲く人物)とはそりが合わず、幕府による「曹洞宗法度」に唯々諾々と従う気持ちにもなれなかったのではないか。そこで、自分の方から宗門内で生きることはもはやないと見切りを付けての出立だったのではあるまいか。思い立ったら断乎行動するという、後の良寛の面目は、ここに既に芽生えてある。
 そして敗戦による戦後がやってくる。さらに、「平成の大合併」で倉敷市となったのが、市北部の真備エリアと船穂エリアである。このうち船穂エリアは、地形としては水島エリアの高梁川河口付近の対岸に位置する。しかも、その南に接して海に面した玉島エリアが広がっている。そこで元からの内陸というのは、精々倉敷エリアと真備エリアくらいのものであろうか。さらに、残る児島エリア、水島エリア、玉島エリアの3つは、元々が瀬戸内海に面する地域だ。「水島臨海工業地帯(水島コンビナート)」は、これら3つの地区にまたがる形で成り立っている。その広さは2514ヘクタール、2016年3月現在の倉敷市の総面積の約7%を占め、ほとんどすべてが埋立地だといっても過言ではあるまい。こうすると、倉敷の中で埋立地といえる範囲は、私たちが普段想像している以上に広い。

(続く)

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