(244)『自然と人間の歴史・日本篇』ファシズムへの突入(南京攻略)

2017-08-09 08:40:48 | Weblog
(244)『自然と人間の歴史・日本篇』ファシズムへの突入(南京攻略)

 1936年(昭和11年)の「2.26事件」以後、日本社会は坂道を転げるように、国内的にはファシズム、対外的には帝国主義への道を転がっていく。なお、日本の第二次世界大戦後の歴史学主流の中では、「ファシズム」もしくは「日本型ファシズム」と定義付けるのをよしとせず、「軍国主義」云々をもって説明することのようである。とはいえ、このような慎重さを装う議論の向かう先が、ともすれば日本だけの殻に閉じこもって歴史的事実に対処しようとする方向性を多々もっていることも否定し難いのではないか。もちろん、予めあるタイプの社会事象を諸特性を列記しておき、日本で起こった現実をこれに当てはめていくが如き叙述の方向が正しい訳はないのであるが・・・・・、ここではひとまず「ファシズム」と言う言葉を当てはめ、話を進めることにさせていただきたい。
 中国大陸への歯止めのない進出の中で、第一次近衛内閣中、軍部の突出した動きを牽制できる勢力は、国内ではもはやいなくなっていく。1937年(昭和12年)7月7日、北京郊外に架かる大橋・の芦溝橋(ろこうきょう)で、「芦溝橋事件」が、またもや日本軍の謀略により起こる。この事件を契機として、軍部がかねてから計画し準備してきた実体か姿を見せ始める。案の定、同月11日の五相会議で5項目、具体的には(1)派兵の目的は戦力の誇示にあること、(2)中国の国民政府側がこの要求に応じないときは武力を行使すること、(3)不拡大・現地解決主義、(4)動員後、派兵の要なきにいたらば派兵を取りやむこと、(5派兵勢力は五個師団、但し差当たり三個師団とすることを早々、政府の独断で決めてしまった。中国に対する全面侵略戦争の火蓋が切って落とされる。8月開催の閣議においては、内地の二個師団の上海を派遣することに決める。そして迎えた9月2日、日本政府はそれまで使用してきた「北支事変」の名称を「支那事変」に改め、中国側との全面戦争の開始を決意する。
 1937年(昭和12年)12月、日本軍は中国の国民政府の首都である南京(なんきん)を占領した。翌1938年(昭和13年)1月15日に開催された大本営政府連絡会議で、今度は内閣が独走を演じる。この会議で、多田駿参謀長は、国民政府を否認することは時期尚早であり、交渉を継続すべきだと主張した。それなのに、広田外務大臣外相、杉山陸軍大臣などは、「すみやかに和平交渉を打ち切り、わが態度を明瞭にする必要がある」とする近衛首相に同調した。結局、この会議の翌日には「帝国政府は爾後(じご)国民政府を相手とせず、石斗真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し、これと両国国交を調整して更正新支那の建設に協力せんとす」との政府声明を発表する。
 こうした短兵急な侵略戦争への傾斜ならびにその正当化の動きに対し、国民世論の反応は概して鈍かった。無産政党の一部までを含めた「挙国一致」の戦争支持の声が高まり、共産党(「講座派マルクス主義派」で非合法)、「労農派マルクス主義派(向坂逸郎、山川均ら)」と社会民主主義の最左派、きわめて一部の自由主義者(無産党の代議士であった山本宣治など)と宗教家(大本教や一部のキリスト者など)などを除いてはこの趨勢に、同調、応召若しくは無抵抗であったといえる。これらの中で異彩を放っていたのが大本教であり、明治末、出口ナオを教祖として出口王仁三郎(でくちおにさぶろう)が立教した。同じく神道系ながら、いわゆる天皇家を頂点とする国家神道とは異なる、独特の神を説いて、世直し、「みろくの世」(神の国)の到来を説く。1921年(大正10年)と1935年(昭和10年)の二度の弾圧を受けたが、ひるまなかった。

(続く)

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