(237)『自然と人間の歴史・日本篇』戦争への道(中国侵略へ)

2017-08-09 08:03:25 | Weblog
(237)『自然と人間の歴史・日本篇』戦争への道(中国侵略へ)

 大陸の中国との関係では、広東(かんとん)を根城に政府を作っていた中国国民党は、中国共産党との合作(がっさく)を進める機運に包まれていた。この年の1月、国民党は第一次全国代表者会議(一全大会)を開く。この会議で打ち出された方針が、「連ソ・容共・農工扶助」(三大政策)というものある。この新方針の意味するものとは、中華民族の力を一つにすることで国内の軍閥、そして日本など帝国主義勢力に対抗し、国内においては都市と農村にみられる国民生活格差を縮め、国力を倍加させよういうものだ。孫文(そんぶん)が率いる国民政府は、この前年の1月に開催の孫文・ヨッフェの共同宣言が発表されてからソ連との協力がすすんでいた。共産党も、この大会において党員の個人資格ながら中央執行委員に李大○(しょう)、同候補に毛沢東らが加わる。同年6月には、黄○(おうほ)軍官学校の校長にモスクワ帰りの蒋介石(しょうかいせき)が就任するおり、共産党の周恩来(しゅうおんらい)が政治委員代理に登用されるという、まるで機織りのような案配で合作の実が上がっていく。
 そういうところに、1928年(昭和3年)に張作霖の乗った列車が爆破されるという事件(「満州某重大事件」)があった。これを仕掛けたのは日本陸軍の関東軍で、その河本高級参謀が爆破を指揮したとの説が有力である。このことは、当時の田中首相が天皇に「この事件の犯人は日本の陸軍の者であるようでございます」と上奏したにもかかわらず、調べが進むにつれ軍の関与が明らかとなり、後には犯人は不明として片付けようとしたのに対し、天皇が「おまえの最初に言ったことと違うじゃないか」と詰問され、これで信任が失われたと判断した田中は辞表を提出したのであった。
 1931年(昭和6年)9月18日の「柳条溝事件」(りゅうじょうこじけん)で関東軍が現在の瀋陽(シェンヤン)、当時の奉天の少し南に位置する柳条湖付近の南満州鉄道をわざと爆破し、これを中国軍の仕業だとでっち上げた。この日本側の謀略による事件を発端として、翌1932年(昭和7年)1月には上海事件(第一次)等々へとつなげていった日本軍の一連の侵略行動を、「満州事変」と呼ぶ。中国現地に展開する日本軍は、本国(日本)政府の不拡大方針もなんのその、それを無視して事を進めるのだった。かれらは奉天城の占領から始めて中国東北部(日本は「満州」と呼んで)一帯を占領し、翌年傀儡政権(かいらいせいけん)の「満州国」をつくって、本国の資本家に「ともに満州国をつくろう」と呼びかけた。
 同年3月10日には、満州国執政(その前は、清国最後の皇帝に地位にあった)の溥儀(ふぎ)より、関東軍司令官の本庄繁に次の書簡が提出される。日本が強制したのではなく、双方の頃合いが整ったところで、溥儀が自主的に依頼したという主旨になっている。
 「書簡ヲ以テ啓上候。
 此次満洲事変以来貴国ニ於カレテハ満蒙全境ノ治安ヲ維持スル為ニ力ヲ竭サレ為ニ貴国ノ軍隊及人民ニ均シク重大ナル損害ヲ来シタルコトニ対シ本執政ハ深ク感謝ノ意ヲ懐クト共ニ今後弊国ノ安全発展ハ必ス貴国ノ援助指導ニ頼ルヘキヲ確認シ茲ニ左ノ各項ヲ開陳シ貴国ノ允可ヲ求メ候。
一、弊国ハ今後ノ国防及治安維持ヲ貴国ニ委託シ其ノ所要経費ハ総テ満洲国ニ於テ之ヲ負担ス。
二、弊国ハ貴国軍隊カ国防上必要トスル限リ既設ノ鉄道、港湾、水路、航空路等ノ管理並新路ノ敷設ハ総テ之ヲ貴国又ハ貴国指定ノ機関ニ委託スヘキコトヲ承認ス。
三、弊国ハ貴国軍隊カ必要ト認ムル各種ノ施設ニ関シ極力之ヲ援助ス。
四、貴国人ニシテ達識名望アル者ヲ弊国参議ニ任シ其ノ他中央及地方各官署ニ貴国人ヲ任用スヘク其ノ選任ハ貴軍司令官ノ推薦ニ依リ其ノ解職ハ同司令官ノ同意ヲ要件トス。
 前項ノ規定ニ依リ任命セラルル日本人参議ノ員数及ヒ参議ノ総員数ヲ変更スルニ当リ貴国ノ建議アルニ於テハ両国協議ノ上之レヲ増減スヘキモノトス。
五、右各項ノ趣旨及規定ハ将来両国間ニ正式ニ締結スヘキ条約ノ基礎タルヘキモノトス。
以上。大日本帝国関東軍司令官本庄繁殿
大同元年三月十日、溥儀」(『日本外交年表竝主要文書』)
 それからほぼ2か月後の5月12日付けで、関東軍司令官・本庄繁より、満州国執政の溥儀に出された書簡には「三月十日附貴翰正ニ受理ス。当方ニ於テ異存無之ニ付右回答ス。
昭和七年五月十二日、関東軍司令官本庄繁。執政溥儀殿」(『日本外交年表竝主要文書』)とあって、なにから何までまさに予定どおりでよろしい、というところか。
 続く1932年(昭和7年)9月15日には、その「満州国」と日本(斎藤実(さいとうまこと)内閣)との間で『日満議定書』が調印される。
 「日本国は満州国が其の住民の意思に基きて自由に成立し、独立の一国家を成すに至りたる事実を確認したるに因り、満州国は中華民国の有する国際約定は満州国に適用し得べき限り之を尊重すべきことを宣言せるに因り、日本国政府及満州国政府は日満両国間の全隣の関係を永遠に鞏固にし、互に其の領土権を尊重し、東洋の平和を確保せんが為、左の如く協定せり。
一、満州国は将来日満両国間に別段の約定を締結せざる限り、満州国領域内に 於て日本国又 は日本国臣が従来の日支間の条約、協定其の他の取極及公私 の契約に依り有する一切の権 利利益を確認尊重すべし
二、日本国及満州国は締約国の一方の領土及治安に対する一切の脅威は同時に 締約国の他方の安寧及存立に対する脅威たるの事実を確認し、両国共同して 国家の防衛に当ることを約す。之が為所要の日本国軍人は満州国内に駐屯す るものとす…」(『日本外交年表並主要文書』)
 こうして軍部の独走につられる形で、日本の中国への本格的な軍事侵略が始まったのであったが、物事はそう簡単には運ばない、国際連盟がこれを咎めてリットンを長とする調査団を現地に派遣する。そして同年10月2日に発表された国際連盟宛て報告書では、「1931年9月以前に於いて聞かれざりし独立運動が日本軍の入満に依り可能となりたることは明らかなり」とし、満州国なるものが日本帝国主義による傀儡政権(かいらいせいけん)であるとの判断を下した。これに収まらなかったのが日本であって、次に掲げるる理由を並べ立てて、国際連盟に対し抗議の脱退を挙行する。
 「昭和六年九月日支事件の連盟付託を見るや帝国政府は終始右確信に基き連盟の諸会議其の他の機会に於て連盟が本事件を処理するに公正妥当なる方法を以てし真に東洋平和の増進に寄与すると共に其の威信を顕揚せんが為には同方面に於ける現実の事態を的確に把握し該事態に適応して規約の運用を為すの肝要なるを提唱し就中支那が完全なる統一国家に非ずして其の国内事情及び国際関係は複雑難渋を極め変則、例外の特異性に富めること従て一般国際関係の基準たる国際法の諸原則及慣例は支那に付ては之が適用に関し著しき変更を加えられ其の結果現に特殊且異常なる国際慣行成立し居れることを考慮に入るるの絶対に必要なる旨強調し来れり
 然るに過去十七カ月間連盟に於ける審議の経過に徴するに多数連盟国は東洋に於ける現実の事態を把握せざるか又は之に直面して正当なる考慮を払わざるのみならず連盟規約その他の諸条約及国際法の諸原則の適用殊に其の解釈に付帝国と此等連盟国との間に屡重大なる意見の相違あること明かとなれり其の結果本年二月二十四日臨時総会の採択せる報告書は帝国が東洋の平和を確保せんとする外何等異図なきの精神を顧みざると同時に事実の認定及之に基く論断に於て甚しき誤謬に陥り就中九月十八日事件当時及其の後に於ける日本軍の行動を以て自衛権の発動に非ずと臆断し又同事件前の緊張状態及事件後に於ける事態の悪化が支那側の全責任に属するを看過し為に東洋の政局に新なる紛糾の因を作れる一方満洲国成立の真相を無視し且同国を承認せる帝国の立場を否認し東洋に於ける事態安定の基礎を破壊せんとするものなり殊に其の勧告中に掲げられたる条件が東洋の康寧確保に何等貢献し得ざるは本年二月二十五日帝国政府陳述書に詳述せる所なり」
 そればかりではない。日本からは不況と貧困にあえぐ労働者、農民などに「満蒙開拓」を呼びかけて占領地の既成事実化をもくろんだ。そして政府が満州事変の拡大を認めないのを認めない陸軍の中堅将校たちが軍事政府の樹立を目指した「十月事件」を企て、未然に発覚する。これらに動揺した第二次若槻内閣は閣内不統一となり、その年の12月10日には総辞職を余儀なくされた。その後に犬養毅を首班とする内閣が発足する。翌1932年(昭和7年)1月には関東軍は満州全域を占領する。続いて同年3月1日には、黒竜江省・吉林省・遼寧省を領域とする満州国の建国宣言を日本が出すに至る。

(続く)

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