『美作の野は晴れて』&『138億年の日本史』&『岡山(美作・備前・備中)の今昔』

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◎一二二の二『138億年の日本史』寛政の改革

2017-05-15 10:43:18 | Weblog
一二二の二『138億年の日本史』寛政の改革

 1786年(天明6年)に田沼が幕閣を失脚した後には、将軍吉宗の血脈(孫、過ぐる日、田安家からだされ白河藩主となっていた)の松平定信(まつだいらさだのぶ)が、なかなかの意気込みで筆頭老中に就任する。それから1787年(天明7年)から定信が突然老中を辞任する1793年(寛政5年)までの間に進められるのが、「寛政改革」(かんせいのかいかく)と呼ばれる。
 最初に、寛政改革期の農村向けの政策としては、何が行われたのだろうか。まずは1789年(寛政元年)に出された出稼ぎ禁止令、それから1793年(寛政5年)にかけては「旧里帰農令」や『出稼ぎ奉公人制限令』をだすに至るが、それにはこうあった。
 「一、陸奥・常陸・下野国村々の儀、御料・私領共近年困窮に及び、別て去る卯年凶作以後は人数も格別に相減じ、耕作も行届兼ね候趣に相聞き、畢竟 人少よりの事と相聞き候間、右三ケ国の内人数不足にて、手余荒地等もこ れ有る場所よりは、以来奉公稼等に出でざること。(中略)
 一、御料所村々の内人数少なにて、手余荒地等これ有る村々より他国へ出で、奉公稼等いたし候者は、年季明の節は帰村致させ、尤も貧窮の者にて、農業成り難き者は糺の上御手当下され候積り、且軽罪の者にて、是迄、其村々に差置かざる者の内にも、其村々の害に相成らざるもの帰村の儀、村々 一同相願ひ候類は、猶又糺の上帰村致っせ候積りに候間、私領村々にても 右体の類帰村致させ度く存じ候分は、得と吟味の上、御料は御代官、私領 は領主・地頭へ願出るべく候」(『徳川禁令考』)
 要は、「百姓は活かさぬように、殺さぬように」という前提に立ちつつ、すでに享保期から疲弊しつつあった本百姓の生活再建をねらって、農業生産の担い手である農民の土地定着を促したのである。
 けれども、農村へ帰って仕事をせよ、農村を捨てて出ることはならぬとやかましく説くだけでは、問題の解決にはならない。そう考え、次の措置を含む。
 「在方より当地え出居候者、故郷え立帰度存じ候得共、路用金調難く候か、立帰候ても夫食・農具代など差支候者は、町役人差添願出づべく候。吟味の上夫々御手当下さるべく候。若村方に故障の義これ有るか、身寄の者これ無く、田畑も所持致さず、故郷の外ニても百姓に成申し度存じ候者は、前文の御手当下され、手余地等これ有る国々え差遣し、相応の田畑下さるべく候。妻子召連(めしつ)れたき旨相願わば、その意に任すべく候。」
(『御触書天保集成』)
 ここに「在方」とは、村もしくは地方、「夫食」とは食料、「手余地」とあるのは「耕作者のない農地」のことをいう。要は、「吟味の上夫々御手当下さるべく候」、さらに「手余地等これ有る国々え差遣し、相応の田畑下さるべく候」ともいって、公儀のの方から某かの生活支援をさしのべるに至っている。あわせて、1790年(寛政2年)には凶作に備えるための囲い米の奨励が始まったりの他、助郷役及び村入用の軽減を打ち出したり、種々の名目での公金を低利で貸したりで、実に多彩な施策が講じられていたことが伝わる。
 次に、都市部ないし武士、町人などに対しては、どのような政策がとられたのであろうか。その内容のめぼしいところでは、1789年(寛政元年)の棄捐令(きえんれい)があった。
 これについては、『御触書天保集成』に、こうある。
 「寛政元酉年九月 大目付え
此度御蔵米取御旗本御家人勝手向御救のため、蔵宿借金仕法御改正仰せ出され候事
一、御旗本御家人蔵宿共より借入金利足の儀は、向後金壱両ニ付銀六分宛の積 り、利下ゲ申し渡し候間、借り方の儀は是迄の通り蔵宿と相対に致すべき事
一、旧来の借金は勿論、六ケ年以前辰年までニ借請候金子は、古借新借の差別 無く、棄捐の積り相心得べき事。(中略)
一、去る巳年以来、当夏御借米以前迄の借用金済まし方の儀は、元金の多少に 拘らず、向後壱ケ月五拾両壱分の利足を加へ、高百俵に付壱ケ年元金三両づ つの済まし方勘定相立て、尤も百俵内外共并借金高済まし方割合の儀も右に 准べき事…
 右ケ条の趣、向後堅く相守り、御旗本御家人とも成るべく丈、借金高相増さざる様心掛け申すべく候。前条の通り、借金棄捐利下げ等仰せ出され候上は、一統猶更厚く相慎み、倹約等別して心掛け申すべく候。右体の御仁慈をも相弁へず、不正の事聊にても之れ有るに於ては、急度御咎仰せ付けらるべく候。勿論是迄の借金棄捐並済方等に儀に付、異論ケ間敷儀これ無く候様、明白に対談致すべきもの也。
 寛政元年九月
 右の趣、万石以下の面々江相触れらる可く候」(『御触書天保集成』)
 その当時、札差(ふださし)といわれる、米商人は、旗本、御家人の米を売却し、お金に変えるという仕事の他に、旗本、御家人にお金を貸すこともやっていた。武士はというと、しだいに貨幣経済にのめり込んで、借財がかさんでいくのであった。このため、武家下流を中心に、生活困窮者が増していった。そこで、この法令の文言にあるとおり、田沼時代から力を蓄えてきていた株仲間の力を削ぐことを目指した中でも、札差からの旗本などの借金を、5年より前のものを限り破棄するという「荒療治」を断行した。とはいえ、
それだけでは札差の経営が立ちゆかなくなることも予想されることから、かれらのために資金の貸付機関である猿屋町会所を設け、低利で融資させることにした。猿屋町会所の設置に必要な資金は、江戸の豪商10名を「勘定所御用達」に任じるという「アメ」を与えて、そのみかえりに出資を促したと伝えられる。
 さて、1786年からその翌年にかけて、関東でも飢饉が起こった。これにより、米価が高騰を来した。これによってもたらされた社会の疲弊を前に、危機感をもった幕府は1790年(寛政元年)に「高壱万石に付、五十石の割合を以て(中略)囲穀(かこいこく)いたし」(『御触書天保集成』)、つまり米価下落のためのために「翌年から10000石につき米50石の割合で5年間囲米せよ」と全国の諸大名、地方の幕府領を預かる代官所に指示を下した。
 翌1791年(寛政3年)には、「七分積金」(しちぶつみきん)の政策を講じるに至る。その内容だが、『宇下人言』によると、こうある。
 「江戸町々、町入用とて無益にこれまた入用かゝりたり。これによって、近年の入用をならして、其の事々簡易渋らざる様に奉行所にてさたせしかば、その入用多く減じぬ。その減じたるうちの七分は、町々永続かこひ籾つみ金の料として、年々のけをかれ、上よりも御金壱万両町々へ下され、これまたつみ金とともにかし付け、或ひは籾をかひ納め、または鰥寡孤独なんどのよるべきもの、又は火にあふて家たつべき力なき地主なんどへ下され料に仰出せらる。猶のこる三分のうち、一分は町入用のましに下され、二分は地主へ下さる。これまでかしやなど住めるもの軒毎にあくたせん・番銭とて出して、実はその入用にもならず、故にこの役銭をゆるされしなり。これまたその積金囲籾一とせにても少なからず。
 年をおひ侍らば、いか計りかの備になり侍らん。まづあらましかうやうほどにも饑饉の御備あれば、俄に乱階ともなり侍るまじき哉。此の入用といふは地主の出すなり。たとへば此の町は地代店ちんの上り高いかほど、うち町入用いかほど、地主の全くとるべきはいかほどと定りて、これらを家守なんどがはからひて町入用を弁ぜしなり。しかれば此の入用を減じて、その一分は町入用にさし加へ、二分は地主の増手取とし、七分はその町々にて囲籾積金になして、凶年の備とし、または鰥寡孤独なんどにほどこし与ふるなり。故に上納などいふことにはあらず。豪富の町人并びに江戸町々地主のうち五人づゝこれをつかさどりて納払をなすなり。
 さるにそのころに仰出され候を、たゞ上へ聚□せらるゝやうに思ひたがひて、あるはかくのごとく金銀上へあつまらば、天下の通用の金少なく成るべし、またはその減じたるも書面にて実の減はさしてもなければ、その七分とていだすも、地主の別にいだすにあたり侍れんどとさまざまいひのゝしりて、人々こはいかゞあらんこの事行はるまじきかといひやひたり」
 これにあるように、都市の貧民救済と低利での金融のため金を積み立てるものであり、「囲米」(かこいまい)の都市版であった。江戸の地主に命じて、かれらが負担する町入用(まちにゆう よう、町費)を倹約させ、その倹約分の七割を町会所に積み立てさせる。そして、その節約させた「町入用」により救貧基金をつくらせ、飢饉が発生した際の都市窮民救済(家持町人への低利融資、つまり利殖運用したものを含む)に用立てることにし、その救済対象には侍身分での御家人も含めたのである。
 さらにこの時代、社会政策にも、目新しいものが出てくる。江戸に限ったところでは、1790年(寛政2年)旧暦2月、老中の松平定信は石川島に人足寄場(にんそくよせば)を開所する。これを建言したのは長谷川平蔵だとも言われるものの、松平定信が長谷川の才智を見つけて命じたのではあるまいか。直参旗本の彼は、通常の仕事に上に「火付盗賊改方」も兼ねていた。さらに、この役を仰せつけられた平蔵は、この人足寄せ場に、軽犯罪者のほか無宿の人たちも入所させる。こうすれば、収容者を江戸市中から隔離するとともに、逃亡を阻止するにはうってつけのものとなる。江戸やその近郊地域の治安を守るばかりでなく、放置すれば犯罪の温床になりかねないかれらを、うまいこと幕府の管理下におくことができるのではないか。当時の石川島は、江戸の隅田川河口にあった砂州というか、川中島のような場所であったらしい。
 とはいえ、この事業により、かれらに大工、指し物、塗師など、出所後の自立のための技術を授け、行政として、なんとかこれらの人達に人としての再生の機会を与えようとしていたことが窺える。きっちりした作業に対しては、それなりの給金も支払われたことがわかっている。1792年(寛政4年)旧暦6月、定信は平蔵の任を解くとともに、新たに「寄場奉行」を新設し、村田鉄太郎を初代の奉行に任命する。これによって、定信・平蔵のコンビで手掛けたこの仕事は臨時扱いを抜け出し、幕府の恒常的事業となったのである。現代でいうと、刑法内での教育刑へ発展するきっかけにもなったのではないか。
 そんな定信の幕政改革で、当時から一般庶民に人気がなかったのが、学術文化政策である。『徳川禁令考』には、こうある。
 「学派維持ノ儀に付申達  林大学頭え
 朱学の儀は、慶長以来御代々御信用の御事にて、已に其方家、代々右学風維持の事仰せ付置れ候儀に候得者、油断無く正学相励み、門人共取立て申すべき筈に候。然処近来世上種々新規の説をなし、異学流行、風俗を破り候類これ有り、全く正学衰微のゆえに候哉、甚だ相済まざる事にて候。其方門人共の内にも、右体、学術純正ならざるもの、折節はこれ有る様にも相聞え、如何に候。
 此度聖堂御取締厳重に仰せ付られ、柴野彦助・岡田清助儀も、右御用仰せ付られ候事に候得者、能々此旨申し談じ、急度門人共異学を禁じ、猶又、自門に限らず他門に申合せ、正学講窮致し、人才取立て候様相心掛申すべく候事。
 寛政二年五月廿四日」(『徳川禁令考』)
 これによると、「正学」とのお墨付きのある、儒学の一派である朱子学(しゅしがく)のみが奨励され、その他の学問、例えば陽明学(ようめいがく)などは「学術純正ならざるもの」の部類に入れられてしまう。それでは、正とそうでないものとの見分け方は何なのであろうか。その答えは、この達しの中からは覗い知れない。それは、施政者の胸先三寸にある、といったところか。1790年には出版禁止令ができ、以後、文学や評論などにひっかかるものが出てくる。文学では、山東京伝による洒落本『仕懸文庫』が禁止され、本人も一時囚われの身になる。また、浮世絵にも厳しい吟味が加えられる。さらに林子平の時論である『海国兵談』が絶版に追い込まれる。こうなると、追々、庶民生活の細々としたことにも監視の目が向けられていく。いつしか、市中の巷(ちまた)では、「白河の清きに魚のすみかねて/もとの濁りの田沼こひしき」とか、「世の中に蚊ほどうるさきものは無し/ぶんぶといふて夜も寝られず」の如き、川柳(せんりゅう)などによる民衆の不満が募って、渦巻くようになっていったと考えられる。

(続く)

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