『美作の野は晴れて』&『138億年の日本史』&『岡山(美作・備前・備中)の今昔』

自分史と、日本史と、岡山(美作・備前・備中)の民衆史です。

◎一一七の四『138億年の日本史』宝暦飢饉

2017-05-18 21:37:34 | Weblog
一一七の四『138億年の日本史』宝暦飢饉

 世に「宝暦飢饉」(ほうれきのききん)と呼ばれるのは、1755年(宝暦5年)から3カ年、東北地方を襲った飢饉のことだ。ここでは、最も惨状をきわめた1755年(宝暦5年)の飢饉について書かれた、三つの著作に次のような記述が残っている。
 「宝暦五年乙亥(い)五月中旬より管領行われ、八月のすえまで雨ふりつづき、其間五日七日雨歇むといえども寒気は初冬の頃のごとく、三伏(さんぷく)の初日も布子(ぬのこ)をかさねぎし、水田に入りて芸(くさぎ)る者は、手足ひえ亀手(こごえ)ぬる程の寒気なりければ、稲は植えたるままにて長ぜず。漸く穂は出たれども、みのらずして枯れぬる故、みのらずして枯れぬる故、奥羽おほひに飢饉し、諸民の歎いふばかりなし。」(建部清庵『民間備忘録』)
 「宝暦五年大凶作なり。此の年早春より四月迄殊の外暖なり。由りて農作植草生、格別宜しく相見え候。五月下旬より天気以ての外損じ冷なる事冬のごとく、東北風のみにて一円日光なく、草取れども田畑は宜しからず。尤も場所に東北の風邪当たらざる山影久根庇(やまかねくねひさし)などは、麦作も相応にて、実も入候も、何とも大形は実らず。五月下旬より八月下旬迄、東北風一日も相ひ止まず。八月初旬迄、栗稗共に穂出るもあれども、有るか無きかの躰なり。云々。」(八戸藩士・上野伊右衛門『天明卯辰梁』(てんめいうたてやな))
 「宝暦五乙亥歳、冷気強くして大凶作なり。矢島御領分にては御毛引二万六千俵なり。新荘村にては二百五十一不俵、坂ノ下村にては五百四十俵なり。乞食村里に満ち、餓死人路の辺にたおるもの実に多し。御上にては舞杉に大いなる穴を堀り、餓死人を埋む。或は兄弟妻子別れ去り、家をあけて他所へ出る者多し。百宅、直根に別して多し。家を離れて他所へ出る者は多く餓死せりという。この冬大雪にてとろろ、わらびの根など堀ることならず、餓死人いよいよ多し。御上にては、毎日かゆをにて飢人を救う。山寺に非人小屋をかける。ありがたきことなり。家財諸道具売りに出ることおびただし、盗人大いに起こる。」とある。又別の記録には「直根、笹子、中奥の沢方面の餓死実に多く、餓死人御領分にて三千余人。」(○○○○)
 これらによると、この年、1755年6月10日(宝暦5年5月1日)だというのに、まるで冬の天気の再来であるかのように寒く、ヤマセが吹き続いていて空が晴れない日が多かった。長雨もあって、冷気殊の外甚だしく、「このままでは稲の実が育たない」有様であって、大きな凶作が予想された。結局、「五月下旬より八月下旬迄、東北風一日も相ひ止まず。八月初旬迄、栗稗共に穂出るもあれども、有るか無きかの躰なり」との事態を迎えるに至る。麦作も、同様の程をなした。こんな状態であるから、当地の米麦は一段の供給不足に陥っていく。
 ここで気象の話を紐解くと、概ねつぎのように記してあった。まず梅雨時には、普段、列島の北東海上にオホーツク高気圧があり、ともすれば日本海にまではりだしてくる。これは、温度が低くて、湿り気の多い空気でできている。それなので、オホーツク海・千島列島方面や三陸沖から東日本へ向かって、北東の風が吹いてくる。この風は、冷え冷えとしている。一方、本州の南の海上には東西にのびる前線ができ、その南側には高気圧が張り出してくる。日本の南の方にあるこの高気圧は、「小笠原高気圧」と呼ばれる。こちらは、温度が高くて、湿り気の多い空気でできている。
 梅雨の時期に入ると、その境目の線上に、低気圧がのっている、居座っているとも言えよう。日本列島を取り巻く天気図がこうなる理屈としては、これらの冷たい空気と温かい空気は、日本の南海の海上でぶつかりあって、前線をつくる。前線の北と南では、温度が6度も7度も違っている。また、前線の南側では、南風がかなり強く吹いている。それなので、前線の近くでは、温かい空気が、冷たい空気の上にはいあがっていくので、冷たい空気の上に雲ができて雨を降らせるわけだ。そこで、これを「梅雨前線」と呼ぶ。前線にそって、その北側の細長い範囲に雨が降っている。ところどころに強い雨、雨もよいの悪天候がひろがる時もある。
 梅雨が明けると、この梅雨前線が北上していく。南の高気圧が北上して、列島に蒸し暑い南風が入り込むようになると、東日本では「空梅雨」(からつゆ)の暑い夏が到来するだろう。ところが、何らかの理由で梅雨型の風の吹き方が真夏までつづくような展開になると、冷夏になる。これだと、東日本での米の収穫量が減り、不作になったり、他の事情(品種の改善など)に変化がなければ、ひどい時は凶作になる危険が出てくる。
 そしてこの時は、東日本、特に東北地方が、その心配していた気象に陥ったのだ。ところが、藩の役人は、商人が普段のレートの2倍、3倍で米麦を買うと言ってきたので、その高値につられてか、藩の余剰米のほとんどを売ってしまっていた。米を備蓄して冬に備えることをせずに、大方の備蓄食料を売り捌いてしまったわけだ。こうして江戸や大坂といった巨大消費地への回米を優先させたのでは、この後にやってくる飢饉への備えはできなくなってしまうと、なぜ思い至らなかったのであろうか。そして、いよいよその時がやって来た。一般民衆は栄養不良になって体力・気力が衰えているところへ、疫病にかかったり、栄養失調状態から、その年の冬場にさしかかる頃から、死に至る者が続出したという。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« ◎一一七の三『138億年の日... | トップ | 『美作の野は晴れて』と『1... »

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL