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◎一五三の二『138億年の日本史』フランスの内乱

2017-06-17 09:58:00 | Weblog
一五三の二『138億年の日本史』フランスの内乱

 1799年11月、「ブリュメール一八日」のクーデターで、統領(執政)政府が成立する。1804年、ナポレオン法典がつくられる。同年5月、ナポレオンが皇帝となる。1806年11月、ナポレオンが大陸封鎖令で周辺国に圧力をかける。1812年、ナポレオンがロシアの遠征を敢行するも、モスクワ占領中の「冬将軍」に苦しみ、やがて敗退。1814年、ナポレオンは退位し、エルバ島に流される。1814年5月、ルイ・ナポレオンがルイ18世として即位し王制を物価津させ、1824年まで続く。1813年3月20日~6月29日、ナポレオンの百日天下。1815年6月にはワーテルローの戦い。同月に、第二次王政復古となり、1830年まで続く。
 1824年、シャルル10世が即位し、1830年まで政治を行う。1830年7月27日から29日にかけて、パリで民衆が蜂起、これを「七月革命」と呼ぶ。しかし、オルレアン朝ルイ・フィリップが即位する、これが「七月王政」と呼ばれるもので、1848年まで続く。1848年2月22~24日、「二月革命」が起こり、共和制臨時政府が成立する。1848年6月22~26日、パリで民衆暴動が起こる、これを「六月事件」という。1848年12月、ナポレオン3世が大統領選挙で圧勝する。
 そして迎えた1851年12月、ナポレオン3世がクーデターを起こす。1852年1月には新憲法が布告される。1852年12月、人民投票で第二帝政が成立し、1870年まで此の体制が続く。1854年3月には、クリミア戦争が起こる。フランスは、英仏、ロシアと対戦する。この戦争は1856年まで続いた。1859~1860年、イタリア統一戦争がった。1860年1月、英仏自由通商条約が締結される。1860年にニース、サボアを併合、翌1861年12月~1867年にかけてはメキシコ遠征を行った。1870年5月の人民投票で議会主義帝制が成立する。
 1870年7月、プロイセンとの間で戦争を開始する。これより前、プロシア(ドイツ)が北ドイツを統一し、1866年その一帯の覇権を持っていたオーストリアとの争いに勝利した普墺戦争に勝利していた。ナポレオン三世のフランスがこれに反発。プロシャの宰相ビスマルクはフランスも引かず、空位となったスペイン国王の跡継ぎ問題にドイツとフランスがかかわるうちに戦争へと突入したのであった。9月2日、ルイ・ボナパルト率いるフランス軍は、フランス北東部の国境沿いの町スダンでドイツ軍に包囲され、自身が捕虜となってしまった。
 その二日後の9月4日、パリの民衆は立法議会になだれ込み、ナポレオン三世の廃位および共和制の宣言を要求した。この共和制革命でナポレオン3世の帝政は倒れ、共和国臨時政府(国防政府)が樹立される。しかし権力を握ったのは民衆の政府ではなく、パリの軍事総督トロシェ将軍を首班とするブルジョア政治家たちであった。1871年1月28日、国防政府は極秘にすすめていたプロイセンとの三週間の休戦協定(別名「降伏協定」)に調印し、プロシアと休戦する。2月12日には、新たに選出された国民議会では、保守派のティエールを首班に指名し、臨時政府が発足する。この政府は、国民衛兵の俸給を打ち切ったり、家賃・負債の支払い猶予も撤廃する。さらに2月26日、政府はアルザスとロレーヌの多くの地域をプロイセンに割譲するとともに、50億フランの賠償金をプロイセンに支払う仮講和条約を同国と結ぶ。フランスの民衆が、これに憤慨したのはいうまでもない。
 そして迎えた1871年3月18日、ティエールの命令を受けたフランス正規軍は、民衆が主体の国民軍の大砲を奪おうとするが、国民軍はこれに抵抗する。正規軍の兵士も民衆に味方し、逆に、民衆と兵士は指揮官の二人を捕らえ、国民軍中央委員の制止をふりきり、銃殺する。ここから「コミューン革命」が始まる。ティエールは軍隊にパリ放棄を命令し、ヴェルサイユに逃げる。パリの支配権は、自動的に武力を握る国民軍中央委員に移る。3月26日、パリ全区でコミューン市議会選挙が実施され90名の評議員が選出されると、このコミューンは執行と立法を同時に行う直接民主的行政機関となる、つまり三権分立ではなくなる。28日には市庁舎前広場でパリ・コミューン宣誓式が行われ、シャルル・ベレーは代表してこう述べた。曰く、「平和と労働、これがわれわれの未来である。これがわれわれの復讐の保障であり、われわれの社会的復活の保障である」「このように理解された共和国は、さらにフランスの弱い者を支持し、働くものを保護し、全世界の搾取されるものの希望となり、世界共和国の基礎とすることができるのである」(モロク編『パリ・コミューン』)。
 このパリ・コミューンのそれからの歩みは、ジグザグなところがあったのは否めない。ヴェルサイユ軍を直ぐに追撃しなかったり、内部での不統一も少なからず続く。社会主義者のカール・マルクスはこの動きに自重(じちょう)を呼びかけていたが、革命勃発後は同政府を支持し、その成り行きを見守った。
 4月に入って兵力を再び結集した、ティエールに率いられたヴェルサイユ軍が革命下のパリに向け攻撃を開始し、コミューンと反革命勢力との内戦が始まる。パリ前面の要塞は次々にヴェルサイユ軍に攻め落とされ、コミューン政府の内部での分裂も激しくなり、5月21日、ヴェルサイユ軍はパリの城内に突入、市街戦が行われるが、これを「血の週間」(la Semaine sanglante)と呼ぶ。兵士ばかりでなく、市民多数が殺される。そして迎えた5月28日、ヴェルサイユ軍によってパリの最後のバリケードも取り除かれ、パリ・コミューンは崩壊する。これらのうち、最後の局面での戦いの悲惨さは、百数十るンを経た今でも、語り継がれる。歴史学者は、その模様をこう伝えている。
 「このパリの防衛戦はのちに「血の週間」と呼ばれた。コミューン側の死傷者数は明らかにされなかったが、死者は1万人から3万人を数え、その大半は降伏した後ただちに銃殺された人々だったと推定されている。ヴエルサイユ側の死傷者数約400人、重傷を負った兵士は1000人だった。コミューンが壊滅した後、数週間にわたり3万8000人を超える人々が逮捕された。」(ロジャース・プライス著、河野肇訳『フランスの歴史』創土社、2008)
 「「血の週間」と呼ばれるこの戦闘でのコミューン派の死者はおよそ3万人、投獄された者4万3500人、他方ヴェルサイユ側の死者は1000人たらずといわれている。装備、戦闘能力の圧倒的な差に加えて、報復テロがいかに凄まじかったかを物語っている。絶望したコミューン派が退却途上で市内に火を放ったことも、ヴェルサイユ派のテロに拍車をかけたであろう。またプロイセン軍がパリ東部を固め、退路を絶ったのも大きかった。とくに凄惨をきわめたのは5月27日、ペール・ラシェーズ墓地での雨中での白兵戦であった。このとき降伏したコミューン派の即時銃殺に使われた壁は、「連盟兵の壁」と呼ばれ、コミューンの「記憶」をとどめる場所となっている。」(福井憲彦『フランス史』山川出版社、2001)
 このコミューンの歴史的性格については、マルクスの『フランスの内乱』にこうある。
 「コミューンのほんとうの秘密はこうであった。それは、本質的に労働者階級の政府であり、横領者階級に対する生産者階級の闘争の所産であり、労働の経済的解放をなしとげるための、ついに発見された政治形態であった。」
 1871年8月31日、パリ市街戦線に勝利したチエールが大統領に指名され、第三共和政(~1940)が始まる。1875年、ワロン法などにより、第三共和政憲法が成立する。1879年1月には、共和派上・下両院を制し、王党派大統領マクマオンが辞任し、共和派グレビが大統領となる。続いて1881年の選挙でオポルチュニスト(日和見派)政権が発足し、1899年まで続く。

(続く)

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