◎30の3『自然と人間の歴史・世界篇』秦から前漢へ

2017-09-26 22:46:53 | Weblog
◎30の3『自然と人間の歴史・世界篇』秦から前漢へ

 主に項羽の軍の奮戦により秦が亡びると、それからは項羽と劉邦とが覇権争いをする。すったもんだの争いを経ての紀元前206年には、劉邦が項羽を下す。劉邦は前漢(西漢、(紀元前202~紀元後220))を立国し、初代皇帝・高祖となる。その高祖だが、その後はとりたてて大きな動きはみせなかった。対外政策では、匈奴(きょうど)2代目君主である冒頓単于(ぼくとつぜんう、在位紀元前209?~同174)に首都長安を一時占領され、対外和親策を余儀なくされた。彼は、戦略的妥協のできる人でもあったところが、生まれたばかりの国家に幸いした。その彼は、紀元前195年に没す。
 それからしばらく高祖の皇后であった呂后とその一族が実権を握った。紀元前180年に呂后が没するとその一族は粛清され、その後即位したのが5代文帝であった。彼は温厚な性格で、無理な政治をおこなうことなく、民心の把握に努めた。6代景帝はも「文景の治」と呼ばれる政治を行い、漢の国力は大いに伸長する。それでも、景帝時代の紀元前154年には各地に封じられていた諸侯が次々反乱を起こす。これを「呉楚七国の乱」と呼ぶ。王権の失政ということではなかったので、この乱は約半年で鎮定される。すると、これによって諸侯の勢力は大きく削られていく。
 そして、いよいよ武帝(紀元前141~同87)の時代が到来する。その前から充実した国力を背景に、隣接地域に積極的な出兵を行うにいたる。まずは、北方の遊牧大勢力であった匈奴に向かう。匈奴勢力の漢の西域からの駆逐ひとまずに成功した武帝は、大規模な西域経営に野心をおこした。ねらいとしては、当時匈奴に敗れて中央アジアのアム川上流まで追われていた大月氏(だいげつし、紀元前140?~紀元後1世紀頃)に対し、互いに力をあわせて匈奴を挟撃しようと約束を取り付けたい。
 その交渉のために、紀元前139年頃、武帝の命を受け、張騫(ちょうけん、?~紀元前114)が長安を旅立ち、西域に向かう。彼は侍従という低い身分だったのだが、才気活発であったらしい。百人あまりの従者と案内役の奴隷・甘父(かんぽ)を連れて河西回廊を進んでいたところ、漢とは敵対関係にある匈奴(きょうど)に捕らえられてしまう。というのも、大月氏は匈奴に対する戦意はなかったためこの計画が匈奴強度流れてしまい、とらわれの身となってしまう。それでも、約10余年を経て脱出し、目的の大月氏国(だいげっしこく)の地を踏むことが出来た。さらに、1年余同国に滞在後の紀元前126年(同129年とも)頃に漢に帰国したと伝わる。
 そして迎えた紀元前129年以降、将軍の衛青(えいせい)や霍去病(かくきょへい)に匈奴の征討を命じる。わけても霍去病の軍は7万に及ぶ匈奴兵を斬殺したともいう。漢は、これにより匈奴を北方へ退かせることに成功する。武帝の侵略は、南方にも向けられる。南越(なんえつ。紀元前203~同111)を征服してベトナム中部まで領土を拡大していく。そこに南海郡をはじめとする9郡を設置する。紀元前108年になると、東方に転じて朝鮮の衛氏朝鮮(えいしちょうせん、紀元前190?~同108)を首都の王険城(現在の平壌)に滅ぼす。そして、楽浪(らくろう)、真番(しんばん)、臨屯(りんとん)及び玄菟(げんと)の朝鮮4郡を漢王朝の直轄領に組み込むのに成功する。
 こうして大軍団でもって周辺諸国を攻撃したことで、これら諸国を服属させて全盛期を迎える。また、とはいえ、張騫の大月氏派遣により、西域に点在する諸国の地理事情、文化・社会情報が漢王朝にもたらされた。その後の張騫については、当時バルハシ湖南東部にいたトルコ系烏孫(うそん)へも使者として派遣された。その後の前漢の領土拡大であるが、紀元前121年頃、オルドス地方(現在の中国内モンゴル自治区。黄河の湾曲によって囲まれているところ)では朔方郡(さくほう)が置かれた。河西地方(かせい。「黄河西方」を意味し、現在の中国の甘粛省(かんしゅくしょう))においては、敦煌(とんこう)、酒泉郡(しゅせん)、張腋郡(ちょうえき)、・武威郡(ぶい)の4郡が置かれる。このあたりはやがて、周囲の数多くのオアシス小都市をも巻き込んでの、古代シルクロードの重要な西のとっかかりの部分として重要な交易路となり、河西回廊(「甘粛回廊」とも)と呼ばれるようになっていく。
 こうして東アジアとその周辺にかつてない影響力を誇った漢帝国であったのだが、新たな戦いや支配地域での争いが次々と起こるようになっていく。それらへの対応で明け暮れるうちに漢の財政はしだいに圧迫され、国力は下り坂に向かっていく。10代目の宣帝の治世になると、国力は一時回復する。彼は、「中興の祖」とたたえられるのであったが、その後はつっかえ棒がなくなったかのように衰退が進み、8年、外戚の王莽(おうもう)を帝位を掠奪して「新」王朝を建国し、すでに地方においても支える諸侯のほとんどなくなっていた漢王朝はいったん滅びる。

(続く)

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