(72)『自然と人間の歴史・日本篇』源氏と平氏

2017-08-05 21:05:45 | Weblog
(72)『自然と人間の歴史・日本篇』源氏と平氏

 1156年(保元元年)、天皇方の平清盛と源義朝らが、政敵の崇徳上皇、源為義らが立てこもる白河殿を急襲し、捕らわれの身となった同上皇は讃岐に移された、これを「保元の乱」という。続く1159年(平治元年)、今度は源義朝が後白河上皇を幽閉して、平安京を制圧しようと企てたのに対し平清盛が反撃し、義朝は逃亡した、これを「平治の乱」という。この戦いに勝利を収めた平氏の清盛は、朝廷の庇護のもとに全盛期を迎える。朝廷と平家とは、はじめは蜜月であったものの、平家の権勢が朝廷と拮抗する気配がみえ始めてからは、両者の間は冷え込んでいく。1179年(治承3年)のクーデターで、平家は安徳天皇を即位させる。
 平家の平清盛が引退し、息子の重盛が家督を継いだのに妻子、朝廷は国政上の平家の役割を追認し、宣辞を発した。
 「仁安二年(1167年)五月十日、宣辞
 聞くならく、近日東山の役路に緑林の景競い起き、西海の洲渚に白波の越え静まらず。或いは運清の租税を奪い取り、或いは往来の人民を殺害す。これを朝章に論ずるに、皇化なきがごとし。宜しく権大納言平卿に仰せて、東山・東海・山陽・南海道などの賊徒を追討せしむべし。蔵人頭(くろうどがしら)権右中弁信範奉」(『兵範録』五月十日条)
 1180年(治承4年)旧暦6月、平清盛が後白河法皇、高倉上皇、安徳天皇を奉じて、福原への遷都を強行した。この遷都について、京に住む神職の鴨長明は、「また、治承四年水無月(みなづき)のころ、にはかに都遷(うつ)りはべりき。いと、思ひの外(ほか)なりしことなり。おほかた、この京の初めを聞けることは、嵯峨(さが)の天皇の御時(おんとき)、都と定まりにけるより後、すでに四百余歳を経たり。ことなるゆゑなくて、たやすく改まるべくもあらねば、これを世の人安からず憂へ合へる、げにことわりにも過ぎたり」と述べ、批判した。
 同年、以人王(もちひとおう)による平家追討の令旨(りょうじ)に、源氏の嫡男・源頼朝(みなもとのよりとも)が応じ、幽閉先の伊豆で挙兵した。頼朝は緒戦の石橋山の合戦に敗れたが、なんとか逃れて北条氏など東国の豪族の加勢を得て、態勢を立て直していく。その2か月後の旧暦10月20日(西暦では11月9日)の富士川の合戦で勝利する。そこで平家軍が腰砕けになった一因には、西国の旱魃による食糧調達難があるとの指摘もある、同年には又、平家の平重衡(たいらのしげひら)の軍勢が、「南都」(奈良)の仏教寺院を焼き討ちする。この事件を「南都焼討」といい、『平家物語』に、こうある。
 「興福寺は淡海公(たんかいこう)の御願、藤氏(とうじ)累代の寺也。東金堂におはします仏法最初の釈迦の像、西金堂におはします自然湧出(じねんゆしゅつ)の観世音、瑠璃(るり)をならしべ四面の廊、朱丹(しゅたん)をまじへし二階の楼(ろう)、九輪そらにかかやきし二基の塔、たちまちに煙となるこそかなしけれ。東大寺は常在不滅、実報寂光の生身の御仏とおぼしめしなずらへて、聖武皇帝、手づからみづからみがきたて給ひし金銅十六丈の廬遮那仏、烏瑟(うしつ)たかくあらはれて、半天の雲にかくれ、白毫(びゃくごう)新にをがまれ給ひし、満月の尊容も、御くしは焼けおちて大地にあり。御身(ごしん)はわあひて山のごとし。八万四千の相好は、秋の月はやく五重の雲におぼれ、四十一地の瓔珞(ようらく)は、夜の星むなしく十悪の風にただよふ。煙は中天にみちみち、ほのほは虚空(こくう)にひまもなし。」(『平家物語』巻第五、奈良炎上:『平家物語①』新編日本文学全集45、小学館、1994より抜粋)
 ここに「淡海公」とは、藤原不比等(ふじわらふひと)を指すのであり、平家はこの挙によって藤原氏を始とする貴族層と奈良仏教集団の神経を逆なでし、いよいよ孤立の道を歩んでいったのである。
 明けての1181年(養和元年)、清盛が病死すると、まず北陸道から南下した木曽義仲(きそよしなか)の軍勢が京都に乱入した。加えるに、同年の旱魃による飢饉は、その翌年の1181年(養和元年)から1182年(寿永元年)にかけてまで続く。その最初の年初めの京都・市井においては、食糧が尽きつつあったのだろうか。この「養和の大飢饉」の中にあって、鴨長明(かものちょうめい)の『方丈記』に「また養和のころとか、久しくなりて確かにも覚えず、二年が間、世の中飢渇(きかつ)して、あさましきこと侍りき。或いは春・夏、ひでり、或いは秋・冬、大風・洪水など、よからぬことどもうち続きて、五穀(ごこく)ことごとくならず。むなしく春耕し、夏植うるいとなみありて、秋刈り、冬収むるぞめきはなし」とあるように、畿内においても被害が拡大しつつあった。
 こうした状況で、平氏は安徳天皇を戴いて、本拠地の福原にても踏みとどまることができずに、九州太宰府にいったん退く。平氏は、そこで陣容を整えて勢力を盛り返し、讃岐の屋島に本拠を置いた。京都に進出した木曽義仲の軍勢は、1182年(寿永2年)、平氏を折って備中水島に兵を向かわせたものの、平氏方が水島の義仲軍を急襲して、敗走させた、これを「水島合戦」と呼ぶ。義仲軍はまた、後白河法皇と組んだ源頼朝の派遣軍と近江の栗津で戦い、義仲軍は決定的な敗走を喫してしまった。後顧の憂いのなくなった源氏の軍勢は、今度は平家を追撃し、一ノ谷に陣取った平家の主力に対し、源義経が後方の崖からの奇襲攻撃によってこれを撃退した。これを「一ノ谷の合戦」という。
 この戦勝に勢いづいた源頼朝は、腹心の土肥実平(どひさねひら)を備中と備後の2カ国、梶原景時を播磨と美作の両国の守護にしてやると仕立てて、それぞれ在地の豪族たちに対し、源氏に従って平家の追討に加わるよう説得工作を行わせた。こうして地盤堅めをした源氏の軍勢は、1184年(寿永3年・元暦元年)旧暦12月7日、山陽道を西に向かい、兵庫の室津までやってきた。時に平家が都落ちしてから1年半近く、彼らはその年の暮れには室津から備前に入り、そこの藤戸海峡を隔てて平家の軍勢と相対峙することになった。そこで平家は下関の彦島に城を築いて、八島と呼応しつつ防衛線を繰り広げて、なんとかして源氏の兵力を阻止しようと、船隊を、当時備前(現在の岡山市)沖の児島(こじま)にまで繰り出した。いまは本州と陸続きの児島半島になっているが、当時は島で、本州との間は「藤戸の渡し」と呼ばれる狭い水道で断たれており、その本州側の海岸線の周りが「藤戸(ふじと)」と呼ばれていた。その後の時代の干拓事業で埋め立てられし、現在の倉敷市内に他ならない。
 この平家の戦法に対して、源氏側は対岸にいる平家の軍に一挙に上陸作戦を敢行して平家方の児島砦を攻め落としたのだった。源氏はいい船を持っていなかったので、どうやら、浅瀬を選んで馬と兵士が渡ったようで、『平家物語』には「藤戸」の章が設けてある。これを「藤戸の合戦」と呼ぶ。余談ながら、この合戦で源氏の道案内人をつとめた漁師が案内後にどうなったかを中心に描いたものに世阿弥元清(ぜあみもときよ)の謡曲『藤戸』があって、昔から権力者やこれに類する者は庶民を目的への手段として扱う傾向を鋭く指摘しているところだ。この奇襲戦にあえなく敗北した平家は、安芸(あき)、周防(すぼう)へと退却して、これと主力のいる屋島と結んで防衛線とするものの、明くる1185年(文治元年)の屋島での激戦によって平家は決定的敗北を喫した。それから程なくして、壇ノ浦の海戦において、平家は最終的な敗北を喫したことで、一族の多くと安徳天皇は海へと沈むのであった。

(続く)

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